福場将太(ふくば・しょうた)1980年広島県生まれ。2005年東京医科大卒。06年北海道の美唄希望ヶ丘病院着任。12年に法人が「医療法人風のすずらん会」と改称・拡大し、現在は美唄すずらんクリニック副院長、江別すずらん病院医局員として勤務。
第33回 美唄すずらんクリニック(北海道美唄市)副院長/江別すずらん病院(北海道江別市)精神科医
福場将太/㊤
「次の診察はいつにしましょうか」。患者に笑みを投げ掛け、カレンダーを見上げた後、カチャカチャと手元のパソコンに診療記録を打ち込む。福場将太の診療スタイルは精神科医になって以来ほとんど変わらない。しかし、網膜色素変性症の進行により周辺視野がわずかに残るだけで、光の明暗や眼前で動きがあることぐらいしか視認できていない。それでもスタッフに支えられ、診療の質を落とすことなく、患者のためと自分を鼓舞する。
福場は1980年、海軍の拠点があった広島県呉市で生まれた。親族に医師が多く、祖父は2人とも医師、父は自宅で歯科医を開業していた。
物心ついた頃から、人より視野が狭いと感じた。明るい所では普通に物が見えるが、暗い所では見えにくいという夜盲症もあった。プラネタリウムや学芸会で舞台が暗転した時、一気に見えにくくなった。そうした時だけ、教師や同級生に手を引いてもらった。母方の祖父も母も夜盲症で、母は夜になると父に寄り添っていた。
福場は、昼間なら自転車にも普通に乗れるし、満ち足りた子ども時代を過ごした。学業の成績も良く、地元の進学校である広島大学附属中学に進学。近視や乱視はあったが、病気を意識するほどではなかった。身内からの「医師を目指して当たり前」という雰囲気に抵抗感を覚えたが、結局、医師という仕事の使命感にひかれ、医学部を目指した。現役で東京医科大学に合格、上京して一人暮らしを始めた。医学の道を志す気の置けない友人達が増え、忙しい勉強の合間に音楽部でギターを奏で、柔道部にも所属、充実した時間を過ごした。
病院実習中に網膜色素変性症と指摘
視力は徐々に下がり、0.3台になっていた。必要な時は眼鏡を掛けたが、5年生になり病院実習が始まった頃から、白い紙に黒で書かれた文字が見えにくくなった。教科書もすらすら読めなくなった。眼科の臨床実習で福場の眼底を覗いた指導医は「網膜色素変性症ではないか」と病名を口にした。
福場は子どもの頃から眼鏡の度を調整するために定期的に眼科に通っていた。やはり夜盲症である母はその病名を知っていたのかもしれなかった。祖父、母、自分……難病の網膜色素変性症の約半数は遺伝性で、眼科の教科書には「失明に至ることもある」と書かれていた。しかし、若い福場は「全員が末期までいくとは限らない。多少進行しても日常生活は送れるだろう」と楽観的に考えていた。実際、祖父や母は普通に暮らしていた。
大学病院の眼科を改めて受診してみたが、紫外線を避け、ビタミンAのサプリメントを摂るぐらいで、確たる治療や進行予防法はないと分かった。視力の低下は容赦なく、抗うことができないのは歯がゆかった。最終学年になれば、卒業試験や医師国家試験のため猛勉強をしなくてはならない。焦りや不安に襲われ、やさぐれていた。
「自分は、本当に医師になるべきなのか。中途で失明してしまえば意味がない」。勉強に全く身が入らなくなった。参考書を開けば、見えにくさがいらだちを倍加させた。成績は急降下し、スレスレの点数で卒業試験にパスしたものの、国試には落ちた。モチベーションが下がっていた。
息子が遺伝病で、母が自らを責めるようなことがあってはならないと、親には視力低下が深刻なことを告げず東京に残った。これからの人生を見つめ直す時間が必要だ。医学部に現役で入り、留年もしなかったが、人生の浪人の時期となった。
日本網膜色素変性症協会の講演に行くなどして、病気の情報を集めた。好きな音楽や執筆活動にものめり込んだ。久しぶりに会った医学部の先輩に言われた。「休んでいても目が良くなるわけじゃない。今のうちにやった方が良いぞ」。背中を押された。
その頃の福場の唯一の優位性といえば、6年間医学を学んだことだけ。高い授業料を出してくれた親にも報いなくてはいけない。仲間達に「業界の端っこにいるぞ」という連帯感も示したかった。国試まで半年、受験勉強を再開した。知識の蓄積に加え、マークシートをずれないように塗る練習もした。2006年春、2回目の挑戦で突破した。
2度目で国試に合格し北の大地で修行開始
精神世界への興味もあり、精神科を目指した。外科系などは困難なための“消去法”でもあるが、好きでやれる可能性がある科目を極めたかった。
各科をローテートする新しい臨床研修制度が2004年から始まっていたが、制度変更直後は対応が追い付かず、自力で研修先を探すことになった。紹介会社から候補として紹介された病院の中に、現在の勤務先の前身である美唄希望ヶ丘病院があった。進行性の眼疾患を煩い、視力が低下しつつあることを承知した上で、精神科医としての修行も含めて福場を受け入れてくれるという。
夕張と並び炭鉱で栄えた美唄は、閉山後は人口減少が止まらず、高齢化も進んでいた。面接で訪ねると、炭鉱病院を継承した古い病院は、緑豊かな山に囲まれた小高い丘の上にあった。都会育ちの福場には新鮮な景色だった。病院の4階には広い体育館があり、「つらいことがあっても、ここのステージでギターを弾けば元気になれそうだ。“美しい唄”という町名も、自分にふさわしい」。
先輩やスタッフ達は福場を温かく迎え入れ、早く一人前の精神科医になれるようにと、一から育ててくれた。道内から幅広く患者を受け入れる病院は、作業療法やデイケアなどの社会復帰支援にも力を入れていた。医師は不足気味で、仕事が多かったことで鍛えられた。
4年目に入る頃には、カルテを書くのも難しくなってきた。精神科は患者の記録を含めて文章を書くことが多い。自分で書けなければ医師は務まらない。いよいよ引退を考え、思い詰めていた。先輩医師達やスタッフも福場の不自由さと苦悩を見ていた。ある日、事務スタッフが視覚障害を持つ医師がいることを教えてくれた。「視覚障害をもつ医療従事者の会」(ゆいまーる)の会員だという。
教えられた大里晃弘医師のホームページを開いた。福場と同じように医学生時代から眼疾患で視力が低下し、いったん医師への道を断念して鍼灸マッサージ師になったが、2001年から点字で受験できるようになった国試に合格し、精神科医として茨城県内の病院に勤務しているという。福場はメールを書き、会いたい旨を伝えた。医師を続けるヒントが得たいと、必死だった。 (敬称略)
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