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放射線科医、自らの画像で肝がん発覚

放射線科医、自らの画像で肝がん発覚


佐藤久志(さとう・ひさし)1968年福島県生まれ。1993年福島県立医科大学医学部卒業。同放射線腫瘍学講座助教を経て、2019年講師。同放射線災害医療センター・災害医療部・先端臨床研究センター兼務。


第29回 福島県立医科大学医学部放射線腫瘍学講座講師
佐藤久志/㊤

 「ごめん。俺、がんになった……」。放射線科医になって15年目の春、佐藤久志は、自分で発見した肝がんを、妻に伝えた。スポーツマンで楽天的、感情が表に出るタイプでないが、その時ばかりは、堰を切ったように嗚咽が止まらなかった。そこに光が与えられたのは、肉親が生体肝移植で繋いでくれた命のリレーだった。

 1968年、佐藤は福島県飯野町に生まれ、3歳年上の兄、3歳年下の弟と共に腕白な子ども時代を過ごした。文武両道で進学校の県立福島高校に進学、初めて献血した。数週間後、HBs抗原検査が陽性であり献血はできないという通知が届いた。B型肝炎ウイルス(HBV)を体内に保有する“キャリア”を意味する。ただ、自覚症状はなく、肝機能も正常だった。

医学部5年生の時、急性肝炎を発症

 1回だけ地元の大学の受験を許され、福島大学理学部と福島県立医科大学に合格。父方の祖母は助産師で、自身も自宅で取り上げてもらった。出産にまつわる話を聞かされたこともあり、医療に関心があった。医大に進み、中学生の頃から続けている柔道に打ち込み、学生会長を務めた。5年生の5月、部活動を終え、食事をして帰宅後、吐き気が襲った。食中毒かと思ったが、翌朝も体調は改善しない。鉛を背負ったように重い体を引きずって授業に出たが眠気が襲い、帰宅後も眠りこけた。

 翌朝も倦怠感を抱えながら病院実習に参加。その日の患者は進行膵んで胆管が圧迫されて閉塞性黄疸が出ていた。病状を解説した医師は、振り向きざま、佐藤に目を留めた。「君も黄疸じゃないか? すぐ外来に来なさい」。病院で採血すると、GOT(AST)、GPT(ALT)が基準値を超え4桁台に跳ね上がっていた。急性肝炎と診断された。劇症化の恐れもあり入院治療が必要だったが、大学病院に空床がなく、実家近くの民間病院に緊急入院した。

 身の置き所がないほどのだるさから次第に解放され、徐々に肝機能の数値も正常化して、2カ月して退院となった。混合病棟で共に過ごした患者達は、佐藤が医学生であることを知らない。 「ざっくばらんに闘病について話せたことは、医師になってからも、大きなプラスになった」

 HBVは、出生時に母子感染したものと考えられた。ずっと無症候だったが、発達した免疫系がHBVを排除しようと肝臓を攻撃し、急性肝炎を発症したのだ。急性症状は治まったが、慢性肝炎を抱えて生きることになった。佐藤の発病をきっかけに、兄弟も感染の有無を調べると、弟もキャリアだと分かった。兄は幼少時に急性肝炎を発症してHBs抗体ができていた。これで最も落ち込んだのは母だった。しかし、佐藤は、生まれを呪う気はさらさらなかった。当時の医学知識からすれば、肝炎の母子感染を防ぐことは不可能だった。

 大学の配慮もあり、何とか単位もクリアして、大学生活に戻れた。当時、B型慢性肝炎の治療はインターフェロン投与が中心だった。退院後1年ほど続けたが、発熱などの副作用が強い割に、ウイルス量に変化はなかった。肝生検をしてみると、肝硬変が進みつつあることが分かったが、インターフェロン治療を打ち切り、1993年、医学部卒業の年を迎えた。

 初期臨床研修制度ができる前の世代で、卒業時に専門を決めなくてはならなかった。スポーツに親しんでいたことで整形医学に関心があり、外科系の医師になりたいという漠然とした希望があった。しかし、主治医から、深夜まで患者をフォローしなくてはならない診療科は負担が大き過ぎると助言された。内科、外科のメジャーな科目ではなく、マイナーな科目を探ることにした。

 一時は精神科を考え、6年生の夏に精神科病院で研修してみたが、自分も将来精神疾患を発病してしまうのではないかと思い早々に見切りを付けた。消去法の末に残ったのが、放射線科だった。

 同級生でただ1人、放射線科の5年ぶりの新入りの医局員ということで歓待を受けた。その頃の大学病院は、診断部門と治療部門は一緒になっており、放射線画像の読影、放射線治療の病棟管理など、予想以上に仕事は多かった。

 今でこそ切らずにがんを治すと脚光を浴びている放射線治療は、当時は放射線科の中でもマイナーだったが、熱心に学んだ。当直も始まり、新生活のストレスもあったのか、夏頃に肝機能の数値が悪化し、今度は大学病院に数週間入院した。

 入局2年目は、会津地方の病院に出向した。治療と診断の業務をこなしても7時に帰宅できていたが、11月に院内の抗争が起き、医師が一気に19人退職し、翌日から呼吸器の患者40人を担当するよう命じられた。次の医師が着任するまでの繋ぎだったが、2カ月経つ頃には、体重は16kg減少し、肝機能の値も跳ね上がっていた。

 さすがに体力的に限界だった。内科で勤務しないかと誘ってくれる知人もいた。辞職を覚悟して、大学の放射線科教授に直訴しに行くと、事態の深刻さを見てとった教授は、すぐに佐藤を大学に呼び戻した。そのまままた3カ月の入院となり、インターフェロン治療も再開した。

 それから10年余り、症状は落ち着き、縁あって結婚もした。慢性肝炎の持病がありながら、医局に出入りしていた保険会社の勧誘員の勧めに乗って、医療保険に加入することもできた。

家族旅行の連休最終日に妻に告白

 平穏な暮らしが一転したのは2008年の5月の連休前だった。手伝いに行っていた白河厚生総合病院が新築移転するに際、放射線診断機器も総入れ替えとなり、佐藤はチェックを任された。データの流れを確認するには、実際に撮像してみるのが手っ取り早い。技師達に頼んでみたが、被ばくしたくないと誰も首を縦に振らない。であればと、自分がボランティアとなって新しいCTに載った。

 画像は問題なく流れたが、覗いた佐藤は衝撃を受けた。肝臓に直径4cmほどの灰色の陰影があった。専門家であれば見まがうことのない病変だった。激しく狼狽したままハンドルを握り、どこをどう通って帰宅したかも定かでないほどだった。

 そのまま連休に入った。子ども達を連れての家族旅行は、最後の旅行になるかもしれないと思いつつも、何もなかったように過ごした。そして連休最終日の朝、意を決して妻に告白した。保健師だった妻は、「まず病院へ行って今の状態を把握してから考えましょう」と、号泣する佐藤を冷静になだめた。    (敬称略)

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