一般には知られていない、よくある「性的な幻覚」
手術後の患者にわいせつな行為をしたとして準強制わいせつ罪に問われた乳腺外科の男性医師(43歳)に2月20日、東京地裁は無罪判決を言い渡した。当初から男性医師を支えてきた関係者は「当然の判決だ」と喜んだが、検察側は無罪を不服として控訴。舞台は今後、東京高裁へと移る。無罪判決の理由の一つは杜撰過ぎるDNA鑑定という検察側の失態だが、同様の事件が↘今後も起きないとも限らない。事件を契機に、医療現場の不安を解消する方策が求められる。
事件を振り返ろう。男性医師は東京都足立区の柳原病院に非常勤で務めていた2016年5月、女性患者の右乳房の腫瘍を摘出する手術を行った。女性は同病院の患者ではなかったが、以前もこの男性医師による腫瘍摘出手術を受けたことがあり、医師を頼っての2度目の手術だった。
手術は成功。ところが、女性は手術が終わった直後に病室で医師に左乳房を舐められるなどのわいせつ被害に遭ったと訴えた。医師は犯行を否認したが、警視庁は同年8月、医師を逮捕、105日間にわたって勾留を続けた。事件の現場となった柳原病院はカルテを提出するなど捜査に協力したにもかかわらず、医師が逮捕されたことについて「全身麻酔手術後患者の訴えのみを根拠とする警視庁による不当な逮捕」と抗議声明を出すなど強く反発した。
全国紙の社会部記者が解説する。「病院だけでなく、当初から事件を疑問視する医療界の声は大きかったが、警視庁は決定的な証拠があるからと強気だった」
警察の不手際がいくつも明らかに
裁判を取材した記者によると、警察の「強気」こそDNA鑑定だっ↖たという。「他に決定的な証拠があるのかと思ったが、検察側は手術をしていない方の胸から被告のDNAが大量に出たという証拠以上のものを出せなかった」(同記者)。裁判ではそのDNA鑑定が争点となり、その結果、警察側の失態ともいえる不手際がいくつも明らかになったのである。「手術した患者の体に医師のDNAが付着することは普通にあり得る。ただ、検察側はその量が多量であったため、患者が訴えた『左乳首を舐められた』とする被害の証明だと主張した。
ところが、裁判では逆に、採取した直径2センチの円から検出した唾液のDNA量としては多過ぎることが明らかになり、主張の信用性が揺らいだ」(同)。
「多量」かどうかだけではない。DNA鑑定を行ったのは科学捜査研究所(科捜研)だったが、証拠となるDNAの増幅曲線や検量図のデータを残しておらず、鉛筆で書かれた記録には消しゴムで消して直した跡が少なくとも9カ所見つかった。鑑定に用いたDNA抽出液も、裁判でDNA鑑定が争点になると判明した後に廃棄されており、証拠を隠蔽したと批判されても反論できないだろう。警察や検察の「自信」を裏付けるはずのDNA鑑定で露呈した杜撰な対応は、医師を限りなく無罪に近づけていった。
それ以外にも医師を無罪とした理由はあった。患者が被害を訴えたのは4人部屋の病室で、当時は満床。病室のドアは開いており、4床はカーテンでのみで区切られていた。看護師や患者の家族も付き添っている環境で、医師が患者に性的な行為をするというのは考えにくい。被害を訴えた時間帯には看護師が何度も出入りしており、患者の手にはナースコールのボタンも握られていた。
患者は医師に左胸を舐められただけでなく、医師が病室で自慰行為に及んだとも訴えており、判決はこうした状況下で患者が話すような犯行が行われたとしたら「かなり異常な状況」と指摘した。
医学的に意見が分かれた点もあった。それが、弁護側が指摘していた「女性は術後せん妄の状態にあった」との主張だ。裁判では弁護側と検察側の双方が、麻酔科医と精神科医に証言を依頼。医師の見解は分かれたが、裁判所はせん妄を引き起こした原因として痛みや麻酔、乳房手術を挙げた弁護側の医師の証言を信用できるとし、患者は「術後せん妄に陥っていた可能性が十分にある」と結論付けた。当日の状況を証言した柳原病院の看護師が「口裏合わせを行った」とする検察側の主張も、細部で証言が異なっており口裏合わせがあったとは考えにくいと退けた。
全国紙記者によると、無罪判決を受け、被告の医師と被害を訴えた患者はそれぞれ司法記者クラブで会見したという。患者の女性は「せん妄ではなく、事件は本当に起きた。DNAが出たのに信じてもらえないなら、どうやって立証すればいいのか」と涙ながらに控訴を求めた。
これに対し、医師を支援してきた東京保険医協会は検察側に控訴しないよう要望し、「事件は全国医療施設の日常診療の中で起こる可能性があり、控訴すれば医療崩壊を誘発する可能性がある」と主張。裁判の中で患者の被害感情は和らぐどころか強くなる一方であり、「(控訴は)今も性被害体験が現実のものであると誤認し続けている患者さんの不幸も遷延させることになる」とも訴えた。
術後せん妄に関する調査・研究が必要
この問題を取材してきた全国紙の女性記者は「術後せん妄は医療界では知られていたようだが、一般の人には知られていなかった。性的な幻覚もよくあるという話は初めて知った」と語る。この点は医師を支援し続けた東京保険医協会などの医療者側も、事件を契機に「術後せん妄への対策議論を進める必要がある」と医療界の対応が不十分であったことを認めている。
「性的な幻覚を見ても、それを訴えると自分が性的なことを考えていたからではないかと思われてしまうのではないか。そうした不安から、患者は幻覚を見ても口にしにくい。当たり前に起こるのだということが分かっていれば、口にできるし、結果的に研究も進む」と同記者。実際にどの程度術後せん妄が起きているのか、どういった幻覚を見るのかといった研究を進めるには、まず「幻覚」の頻度や内容の傾向を表に出す必要がある。関連学会による今後の研究が進むことを待ちたい。
医療者側の〝自衛策〟も忘れてはならない。判決後の会見で、医師は「診察であっても女性と2人きりになることはないよう気をつけたい」と話した。医療者による性的被害を訴える患者は精神科などでも見掛ける。医師と患者の信頼関係を築くことや患者の羞恥心を刺激しないことは重要だが、都内の精神科医は「看護師を立ち合わせて2人きりにならないことが自分の身を守ることになる」と語る。もちろん、第三者の目があることで、実際の事件も防げ、患者にも有利に働く。
無罪となった医師は身体拘束に加え、誹謗中傷など大きな被害を受けた。しかも、裁判はまだ続く。同様の被害を訴えることが難しい環境づくりに医療界が積極的に取り組まなければ、医師も患者も浮かばれまい。
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