私が専門とする精神科で一番多い疾患と言えば「うつ病」だが、その実態や原因にはまだよく分かっていない点がある。「うつ病は脳内化学伝達物質のセロトニン、ノルアドレナリン不足で起きる」という、いわゆるモノアミン仮説が通説になりつつあったが、最近になって別の重要因子が注目を集めている。
それは、BDNF(脳由来神経栄養因子)だ。このBDNFが不足することにより、脳の神経細胞がダメージを受けて、その結果としてうつ病が起きるというのだ。
では、BDNFはどうして不足するのか。それについてはまだよく分かっていない側面もあるが、国立精神・神経医療研究センターの功刀浩医師らが唱えるストレスホルモン仮説は、臨床的にも理にかなっていると感じる。功刀医師らは、ストレスを受けると身体がそれに対処するためにコルチゾールなどのステロイドホルモンを分泌するが、それが慢性的に続くとBDNFの生成が抑制され、結果的に脳がダメージを受けるというのだ。
薬物投与に頼らない「功刀メソッド」
その状態を解消するためには、もちろんストレス因子を取り除き、体内がコルチゾール過剰状態にならないようにしなければならないのだが、功刀医師は減ったBNDFを増やすことができる、と主張する。しかも、それは薬物投与によってではなく、日々の食事や適切な運動によっても可能というのだ。動物実験ではなくヒトでの調査研究でも、かなりのエビデンスが得られつつあるようだ。
この魅力的な功刀メソッドがこのほど、一冊の本にまとまった。それが『心の病を治す 食事・運動・睡眠の整え方』(翔泳社)である。
例えば「運動」についての章では、2000年頃までは「いったん生まれた後は脳に新たな神経細胞ができることはない」と言われていたが、その後、大人になってからでも新たな神経細胞の誕生(神経新生という)が起こり得ることが分かってきた。
本書によると、ネズミの実験では飼育ケージに輪回し器などの遊び道具を入れておく方が、より記憶の中枢である海馬の神経新生が活発になることが知られているという。そして、アメリカの120人の高齢者を対象とした研究で、ストレッチを行ったグループより有酸素運動の早歩きをしたグループの方が海馬の体積が増加していることが明らかになった。
どうだろう。そういったデータを示されたら、「さあ、残業などはさっさとやめて、スポーツサークルに通ったり、ひと駅手前で降りてウォーキングを楽しむなどして身体を動かしてみてはいかがでしょう」という功刀医師のアドバイスに、「やります!」と従いたくなる人も多いのではないだろうか。
同じように食べものに関しても、「うつ病改善に有効な主な栄養素」として、魚の油に含まれる不飽和脂肪酸、肉や豆などのアミノ酸、葉酸などのビタミン類、ミネラルが紹介される。もちろん、規則正しい睡眠も大切。
功刀医師は、こういった「食事、運動、睡眠の乱れが引き起こす現代型のストレス」に「隠れストレス」という名前を付け、これがストレスホルモンの分泌やBDNFの低下、脳の神経細胞の損傷、さらにはその結果としてのうつ病を引き起こすというのだ。
診察室で職場の人間関係などのストレスからうつ病に陥っている人に、「その人との関係を改善しなさい」と言うのは難しい。
しかし、「その悩みはさておいて、食事、運動、睡眠にまずしっかり取り組みましょう」と指導して実行してもらうようにすれば、「1日1時間速足でウォーキングするためにはなるべく定時に会社を出なきゃ」ということになり、結果的にその苦手な人と過ごす時間も少なくなる。「よし、しっかり脳にいい栄養素を摂ろう」と食事に関心が向いて、買い物や料理にも工夫するようになれば、会社のストレス自体が頭の中を占める割合も減るだろう。
そして、生活を整えることによって結果的にBDNFが増加し、脳の微細な損傷が修復されれば、まさに一石二鳥でうつ病は回復に向かうことになる。
もちろん、生活の改善だけでいったいどれほどのBDNFが増加し、それだけでうつ病回復の効果が明らかに抗うつ剤よりも有意に見られるのかなどは、今後のさらなる研究を待たなければ分からない。
ただ、日々の生活をおろそかにしたり投げやりに送ったりせずに、「まずは食事、運動、睡眠から」と取り組むこと自体は、ストレスを減らし心の病の回復にプラスになるのは間違いないだろう。私の場合は、うつ症状が重篤な患者さんには「休養と服薬」という従来の治療法を試みて、回復の兆しが出てきたら、この功刀メソッドを下敷きにした“生活療法”を勧めている。
「そんなに完璧にやらなくてもいいですよ。できなくても自分を責めず、反省もせず、また明日から楽しみながらやればいいのです。できた日には大いに自分を褒めましょう」
そう伝えながら生活記録表を渡せば、大抵の患者さんは楽しみながら生活改善に取り組んでくれることが多い。そして、明らかにうつ症状は改善していく。
医療関係者こそ必要な生活の改善
さらに言えば、この「食事、運動、睡眠の乱れが引き起こす“隠れストレス”の解消」は、医療関係者にも必要なのではないか。というより、忙しい医師などは、食事も適当、運動不足、睡眠も不規則と、まさに「隠れストレス」のかたまりと言ってもよい。
もちろん、明日から生活を完全に変えるのは無理だが、「食事、運動、睡眠のバランスはどうかな」と少しだけ気をつけながら暮らすだけでうつ病になりにくい身体になるのなら、損はないのではないだろうか。
かく言う私も、スマホ大好きで運動不足、典型的な夜型人間で睡眠も食事も乱れがちだ。今のところうつ病の兆候はないが、こういう生活が身体にいいはずはない。患者さんに指導する手前もあり、今年は「隠れストレスを減らす」というのを目標にしたい。
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