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未来の会

ドナーに感謝を伝えられ、より前向きに生きる

ドナーに感謝を伝えられ、より前向きに生きる

原木真名(はらき・まな)1963年東京都生まれ。千葉大医学部卒業。同大小児科、都立墨東病院、帝京大医学部附属市原病院を経て、98年開業。


医療法人社団星瞳会 まなこどもクリニック(千葉市)理事長
原木真名/㊦

 小児科医、原木真名が発症した骨髄異形成症候群は、30歳を目前に急性骨髄性白血病へと転化。いったんは死の淵に立たされたが、幸いにも骨髄バンクで細胞の型(HLA)が一致するドナーが見つかり、骨髄(造血幹細胞)移植に踏み切れることになった。

 1993年9月のこと、HLAの精密な型を調べて適合の可否を再確認すると共に、MRIを撮るなど、全身の様々な検査が行われた。移植後は1カ月ほど免疫不全の状態が続くため、虫歯の治療なども事前に済ませておかなければならない。

 そして11月、3週間後に控えた移植のために、母校である千葉大学の医学部附属病院に入院した。移植前の治療は、大量の抗がん剤を投与して、白血病に冒された骨髄細胞を徹底的に壊滅させる。未熟で異常な芽球細胞を減らすための化学療法に比べて、副作用も重い。下痢症状に悩まされ、制吐剤の催眠効果により、夢うつつの状態が続いた。ドナーは遠方に住んでいるため、千葉大のスタッフは、骨髄を採取する病院に前日に出向いた。

 12月2日の移植当日、原木は無菌室に入った。その朝にドナーから採取された骨髄細胞を携えたスタッフは午後3時半過ぎに病院に到着。上腕に刺された注射針から静脈を介し、ドナーの骨髄液が命を流し込む。91年に骨髄バンクが発足して2年目、千葉大学では2例目の手術だった。骨髄移植の現状を伝えたいと、ドキュメンタリー番組の取材のため、原木の白血病発症からバンクに登録して以降の一部始終をテレビカメラが捉えていた。

 3週間ほどして、白血球数は1000/μLを超えた。骨髄が機能している証拠だ。クリスマスイブ、原木は無菌室を出ることを許された。

入院中つらいのは子どもに会えないこと

 造血幹細胞の生着が確認された後は、他者の細胞と自分の免疫系との間でせめぎ合いが起こり、拒絶反応の移植片対宿主病(GVHD)のリスクは、非血縁者間では高い。このため、移植後しばらくは免疫抑制薬を服用する。肝機能がやや低下したものの大過なく推移し、徐々に薬の量を減らすことができた。入院中、最もつらかったのは、2歳になっていた息子と会えないこと。感染を持ち込む可能性のある乳幼児は、血液病棟に入れないことは承知していたものの、院内を訪ねる別の子どもの「ママ、ママ」という声が心に刺さった。

 3月を迎え、待望の退院がやってきた。しばらくぶりに再会した息子には不審な目を向けられたが、少し時間をかけて母を思い出してもらった。自宅療養の経過は良好で、職場復帰のメドも立ちつつあった。夏には、愛犬も含めて家族で北海道を車で巡り、復帰前の長期休暇を楽しんだ。帰宅後に帯状疱疹を発症するという落ちが付いたが、病そのものの回復は順調だった。

 医師になって、出産、さらに病気と、同期の医師より2年以上遅れての小児科医修業を、元の勤務先である帝京大学医学部附属市原病院(現・帝京大学ちば総合医療センター)で再開したのは、8月だった。小児科医としては、ジェネラリストを目指していた。腰を据えて子育てと両立するため、早くに母校の医局は離れていた。

 移植から3年目の96年10月、当直室に横たわると咳の発作に襲われた。翌朝も咳が治まらないため、自院でX線を撮ってもらうことになった。心臓は大きく肥大しており、胸に対する心臓の大きさ(心胸郭比)は50%以下が正常なところ、70%近くになって、心臓が十分機能していない。抗がん剤による心不全が起こっているのであれば、再起不能となることは覚悟しなくてはならなかった。緊急入院となったが、幸いなことにウイルス性の心筋炎であると判明した。移植後の免疫機能が不十分だったために感染症を起こしたらしいと分かり、事なきを得た。

 息子が小学校に上がる98年、開業を決断した。千葉市内でもニュータウンとして開けてきた一角では若いファミリー層も多く、小児科の診療所が待望されていた。医師になって10年目、34歳は開業する年齢としては若い。賃貸物件だが、設計段階から自分の希望を入れてもらい、思い通りのクリニックを建築することができた。こだわりは、働く母親の支えにしたいと病児保育を併設することだった。様々な用途に使えるよう、診察室も3室設けた。自宅に近いため、小学校帰りの息子が、おやつを求めて顔を出すこともあった。

 自分の手で診療所を作っていくという張り合いのある毎日で、また、子育ても忙しく、公私共に生活は充実していた。しかし今が幸せであるほど、大きな心残りがあった。見ず知らずの自分に骨髄を提供してくれた命の恩人はどんな人で、どのような思いでいるだろうか。全く健康な人が全身麻酔を受け、リスクを賭して骨髄採取に臨んでくれた。託された命の重みというプレッシャーに押し潰されそうだと感じることがあった。

闘病を通し1人では生きられないと実感

 プライバシー保護や金銭授受などに繋がらないよう、日本では骨髄移植のドナーにもレシピエントにも個人情報が伏せられている。移植から8年がたった2001年12月、日本造血細胞移植学会の公開シンポジウムの会場で、原木はドナーとの対面を果たす。骨髄提供と移植の時期が一致したことから、偶然にお互いが当事者だと分かった。

 原木は涙混じりに、自分の言葉で最上級の感謝を伝え、ずっと背負い続けていた大きな荷物を降ろした気がした。当事者同士が会うことには賛否があるが、自分の復活ぶりを直接伝えられ、それからより前向きに生きられる感じがした。

 2014年には、白血病治療に伴う晩期後遺症として髄膜腫に見舞われた。脳ドックを受けて、偶然判明した。良性腫瘍だが、大きくなると視覚野を圧迫しかねないため、ガンマナイフ治療で腫瘍の増大は止まった。

 心不全の薬など、今も服薬は続くが、健康を保ち続けている。20周年を迎えたクリニックに、1日100人以上の患者を迎え入れる日もある。大病を患ったことはホームページにも載せ、白血病や難病の子どもを抱えた母親の相談に熱心に耳を傾け、助言することもある。

 一人息子は、自分と同じ小児科医の道を歩み始めており、孫も2人生まれた。診察室では“おばあちゃん目線”になって、「一晩よく頑張って子どもを守ったね」と、母親達を励ます。臨床心理士によるカウンセリングを実施したり、児童発達支援施設への支援なども行っている。息子が将来手伝ってくれるかは分からないが、「不安な親子が安心して頼ってくれる場所」であり続けたいと願う。

 闘病経験で得た物は大きい。ドナーはもちろんのこと、多くの医療者に支えられて今がある。「若い頃は頑張れば何でもできると過信していたが、1人では生きられないことを心から実感している」。(敬称略)

〈聞き手・構成〉ジャーナリスト 塚嵜朝子

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