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未来の会

病を得てからの1日1日はとても充実している

病を得てからの1日1日はとても充実している

嶋元 徹(しまもと・とおる)1961年山口県生まれ。88年近畿大学医学部卒業。近畿大学医学部附属病院、昭和病院(現・尼崎新都心病院)を経て、93年から嶋元医院勤務。


第24回 嶋元医院院長、山口県大島郡医師会会長
嶋元 徹/㊦

 
2017年6月、会長として出席した大島郡医師会総会の席上、進行胃がんを患っていることを告白した嶋元徹は、入院先の周東総合病院に戻り、翌日は胃の全摘手術に臨んだ。

 胃を覆うリンパ節も全て摘出されたが、組織検査では最も遠いリンパ節にまで及んでいた。腹水は陰性で、遠隔転移はないと判断され、診断上はステージ3C。でも、限りなくステージ4(遠隔転移あり)に近いと納得した。

  「手術で取り切れるとは思わなかった。どこかで転移するやろう」

 手術から9日後、7月6日朝に退院すると、10時から外来を再開した。診療は休むことなく続けたが、胃を全摘すると、食物が一気に腸へ流れ込むことになり、ダンピング症候群に悩まされた。食後ほどなく、全身の倦怠感や、腹痛や下痢などの腹部症状に襲われるため、1度に少量しか食べられない。朝食後、外来が始まるまで1時間ほど横になる。昼食後も夕食後も同様だ。カロリーを摂取するため、外来をしながら菓子をつまんだり、夜半に目覚めればパンなどを口にしたりした。夜は熟睡できず、2時間ずつ3回に分けて睡眠を取るといった具合だ。

 患者を含めて誰に対しても、がんであることを隠すまいと思った。「痩せましたね」と聞かれれば、胃がんで手術をしたことを伝える。SNSで経過を報告すると、口コミで一気に知れ渡った。患者から体調を気遣われ、「頑張ってください」と言葉をかけられたりすると、大いに励まされた。

 しかし、悪い予感はやがて現実になろうとしていた。術後は補助化学療法で経口の抗がん剤の内服を始めた。好中球が少ないために、白金系の抗がん剤は併用できなかった。2018年が明ける頃から、腹水が貯まっていることは、はた目にもはっきり分かった。3月に腹水を抜いてもらうと、今度は陽性。1年足らずで腹膜への転移が分かった。そこで、セカンドラインの化学療法として、2剤を点滴で投与する治療に切り替わった。

人生が2分の1なら倍以上働いて遊ぶ

 月曜午後は化学療法のため、診療を一時中断しなくてはならなかったが、それまで以上に診療にも、医師会などの公務にも全力投球した。

 もう一つ譲れないものは、二輪のロードレース出場だった。岡山国際サーキットに通い続け、8月の3時間耐久レースでは、スタート直後に転倒、完走はしたものの実は骨盤骨折をしていた。それでもひるまなかった。

 「人生が2分の1なら、2倍、3倍働いて遊べばいい。人生が濃くないともったいない」

 体調の許す限り、毎朝6時から自宅から1km足らずの港まで走り、ストレッチを行った。走り切ることで、今日も生きられると実感できた。

 ダンピング症候群がなかなか回復しないところに、抗がん剤の副作用も加わってきた。頭髪は以前より薄く、縮れたように髪質が変化したが、整髪剤で押さえれば気にならなかった。ただでさえ量を食べられないのに、味覚異常が食欲不振に拍車を掛けた。そして全身を倦怠感が襲う。

 しかし、5月6日にシーズンが開幕すると、例年通り、土曜午前中の外来が終わってから出発し泊まり掛けでレースに挑み続けた。体調や生活リズムの変化を考慮して、ホテルでは個室に泊まったが、愛車に乗り続けていることは、生きている証だ。

 5月末、大島郡医師会の最大の行事である大島医学会が開催された。例年は外部から講演者を招いていたが、今回は自ら壇上に上がった。題して、「病気だけど、病人じゃない!〜がん体験から人生を考える」。包み隠さずに自分の病状経過を話し、思いを吐露した。

 世は終活がブームだが、切羽詰まらないと、本気で死と向き合うことができない。嶋元は、何も予定がなければ、丸1日寝ていられるほどの体調でもあった。だからこそ、1日1日、目覚めてから寝るまで、パズルのようにきっちりと予定を詰め込みたかった。パズルが完成したら、翌日のパズルにまた取り組めばいい。長期の展望は抱けなくても、短期の目標はコツコツ立てた。

 大島医学会での講演が評判を呼び、主に医療関係者向けに、時として一般聴衆を対象に、講演の依頼が舞い込んだ。それは、大事なパズルのピースだった。

 半年にわたり抗がん剤を続けても、定期的に腹水を抜かざるを得ない状況は続いていた。9月末に行ったCT検査の結果は思わしくなく、腹水が貯留するスピードは速まっていた。

 10月1日の外来で、主治医は、副作用で体が疲弊する前に、薬をオプジーボ(ニボルマブ)へと切り替えることを提案した。

 その夕方、ノーベル医学生理学賞を伝える報道で、その薬が大きく取り上げられていた。受賞した本庶佑は高校までを山口県で過ごしたという。親近感を覚え運命的なものを感じたし、ノーベル賞級の薬と聞けば期待も募る。しかし、万能な薬ではないことも分かっていた。「末期という今の状態では、効いたらラッキー、効かんでもしょうがないぐらいに思わないと……」と落ち着いていた。

 10月半ば、“最後の砦”となるオプジーボの投与が開始された。診療と並ぶ生き甲斐であるレース出場に、さらに貪欲になった。28日の最終戦では、3レ−スにエントリーした。どれも中途半端になるのではと懸念され、筋力も体力も落ちているので、急カーブでヘルメットを上げるのも苦労した。しかし、全て決勝に進出して完走したのみならず、「80-Mini」というクラスで2位に滑り込んだ。我がままを貫いた末の価値ある勝利だ。

医院は「閉院」ではなく「休診」へ

 病魔は容赦なく進行した。小腸に狭窄個所があることで、通過障害は悪化し、11月26日に中心静脈にカテーテルを留置して、高カロリー輸液で栄養を摂取することになった。

 決断の時が来た。自分が納得する診療ができないため、12月からは一旦完全に休診することにしたのだ。閉院ではなく、あくまでも休診である。

 地域で在宅医療を担い、在宅で濃厚な医療行為をするよりは、患者本人が苦しまず好きなことができるようにできるようにと心を砕いてきた。その流れの中に自分がいる。

 がんは多くのものを奪った。大きな夢、それは周防大島町の町長になることだった。医師会長などの立場で行政と交渉する機会は多く、町を変革するには、自が長になるしかないと考えた。そして、ありふれた夢はたくさん、孫の顔を見ることはきっと叶わないだろう。

 一方で、病を得てからの1日1日はとても充実しており、豊かな日々を送れている。「2倍かどうかは分からないが、1倍以上は頑張った。幸せかもしれん」。そして命の限り、頑張り続ける。(敬称略)

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