最近、話題の「ゲノム編集」についてのシンポジウムに出席する機会があった。
説明するまでもないこととは思うが、「ゲノム編集」とは、生物の遺伝子に狙いを付け、効率良く改変する技術だ。
2012年に「クリスパー・キャス9」という、酵素を道具として使う画期的な手法が開発され、実験用動物の開発や農産物の品種改良を目的として一気に世界に広がった。
人の疾患の治療に向けた研究も進んでおり、中国では既に受精卵にこの技術を使った治療が行われて成功したことが発表されている。様々な倫理的問題も指摘されているが、世界的趨勢を見ると、もう「待った」は掛けられない状況になっていると言えるだろう。
シンポジストの話で印象的だったのは、この技術を使ったゲノム編集を行うと、その変化は一代限りにとどまらず、子孫にも遺伝されていく。
それが良い形質ならまだ良いのだが、万が一、悪い形質ができてしまった場合、下の世代に伝達され、あっという間に広がっていく。
「ちょっと恐ろしい言い方をすれば、誰がやったかの痕跡も残さずに、一つの種を絶滅させることもできるんです」という話を聞いて、背筋がゾッとした。
「健康生成」盾に早晩ゴーサイン
その後、今教えている大学の人文系の学部のゼミでその話をし、「あなたはゲノム編集技術をどう思いますか」と学生達に議論してもらった。今の学生達は未来や社会に対して割と楽観的で、どちらかといえば性善説に傾きがちだ。「病気の子供が生まれるのを防げるのなら、受精卵にゲノム編集を施すのは賛成」という意見がほとんどだった。
学生達にさらに尋ねた。「では、もう一歩進んで、受精卵のあるゲノムを別のに取り替えたら、歌がうまくなるとか、足が速くなるとか、目が二重になるとか、そういうことが分かった場合、改変を行うのはどうですか」。
これに関しては、ほぼ全員が「やってはいけない」と言う。
「親の欲望で子供を自分の望み通りに作り替えるなんて、絶対にいけないと思う」「それってもう、その子じゃなくなる。もし、自分がそうやって生まれた子供だったら、『そのままじゃ、親に受け入れられなかったんだ』と傷つく」など活発な意見が出た。
「病気の予防や治療」のためのゲノム編集なら良いが、「才能や外見を改良」するために行うのは良くない。これが共通の見解なのかもしれない。
しかし、最近、医療の分野でも病気などのマイナスをゼロに戻すのではなく、通常の状態をプラスにする、あるいはプラスの状態を維持し続ける、「健康生成」という概念に注目が集まっていることは、ここで私が強調するまでもないだろう。
アンチエイジングやマインドフルネスなどで、今の若さを保とう、心をさらにしなやかに鍛えよう、とする人達がたくさんおり、それらは予防医学の見地からも推奨されている。
そうやって考えると、「ゲノム編集であなたのお子様の健康生成を」と受精卵の段階でのゲノム分析と改変を目指す技術や、それを実施する医療機関が出てきても、少しも不思議はない。
もちろん最初は「倫理的に問題がある」と厚労省が許可しないだろうが、「健康度の高い子供が生まれることにより、生涯の医療費も抑制されるし、労働人口が減る中、生産性の高い人間が増える」と言われると、早晩ゴーサインを出してしまう可能性もある。
意味ある議論ができるベテラン臨床医
おそらく、このコラムを読んでくれている医療関係者達は、直感的に「いや、そこまでやるのは問題だ」と感じるのではないかと思う。具体的な理由があるというよりは、「それは人間が行って良いことの範囲を超えている」と感じる人も多いのではないか。
しかし、その“直感”が実はまだよく言語化されていないのだ。それよりも、先ほど挙げたような推進派の理屈の方が説得力はあり、声も大きい、というのが現実だ。
読者の中には、私と同じ世代、つまりミドルからシニアになりかけだったり、既にシニアだったりする人もいるだろう。
年齢が上がるほど、臨床経験や人生経験から「人間にゲノム編集を施すのは問題」と感じているはずだが、実は今こそその世代の人達の声が必要なのだ。
これは、AI(人工知能)にしても同じ。今や医療の世界へのAIの進出は止めようもないが、それでも「そこまでAI化して良いの?」というポイントはいくつもある。そこで必要なのも、アナログ世代の直感や経験に基づく意見なのではないか。
ところが、上の世代はゲノム編集にしてもAIにしても、「私はよく分からないので、若い世代に任せたい」と一歩引いて見ている人が多い。もちろん、中には最新の知識を常に入手しているシニア世代もいるが、そういう人は大抵行政や医療の世界で推進派の中核にいる。
私もそれらの方面に明るいわけではないのだが、時々自分より上の60代、70代、それ以上のドクターに向けて、こういった最新の技術を分かりやすく解説し、その人達の率直な感想を聞かせてもらう気軽な意見交換会を開けないか、などと考える。
例えば戦争の記憶もある80代のドクターが、「受精卵の遺伝情報を編集する、だって? それこそドイツが戦争中に陥った優生思想に繋がるじゃないか。絶対にやってはいけないことだ」などと発言してくれたら、技術の開発に夢中な若い世代もハッと立ち止まるのではないだろうか。
今回のコラムで「ゲノム編集」に興味を持った人は、ぜひ毎日新聞科学環境部の須田桃子記者が書いた『合成生物学の衝撃』という本を読んでもらいたい。そして、それが天使の技術なのか、悪魔の技術なのか、大いに議論してもらいたいと思う。
繰り返しになるが、ここでもっとも意味のある議論ができるのは、経験豊かなベテラン臨床医だと私は考えているのだ。
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