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治療中の針刺しでB型肝炎に感染

治療中の針刺しでB型肝炎に感染

荒井保明(あらい・やすあき)1952年東京都生まれ。79年東京慈恵会医科大学卒業。愛知県がんセンター放射線診断部部長、国立がんセンター(現・国立がん研究センター)中央病院放射線診断部部長などを経て、2012年同病院長。16年から現職。14〜17年、日本IVR学会理事長。


国立がん研究センター 理事長特任補佐
中央病院放射線診断科・IVRセンター医師
新井 保明/㊤

 国立がん研究センター理事長特任補佐(前中央病院長)の荒井保明は、駆け出しのがん治療医だった頃、ありふれた医療事故から、生命の危険に見舞われた。

 1980年代頃から増加の一途を続けるがん患者。荒井はがん治療医を志して、84年から愛知県がんセンター(名古屋市)に勤務していた。生まれ育った東京を離れて暮らすのは、初めての経験だった。

 同センターは都道府県立のがん専門病院では最古で、薬物療法で先進的な役割を果たしていた。志望していた内科は空きがなく、放射線科医に転身した。放射線科では、外科と内科の要素を兼ね備えた新たな治療法が模索されていた。体内に挿入した針やカテーテルをCTなどの画像誘導下にコントロールして行う治療だ。がんでは、例えば腫瘍に栄養を運ぶ動脈にカテーテルを挿入、塞栓物質や抗がん剤を入れてがん細胞を“兵糧攻め”にする治療もその一つ。米国生まれの治療はインターベンショナル・ラジオロジー(Interventional Radiology)の略称で「IVR(画像下治療)」と呼ばれていた。

 手先が器用だったことも幸いし、IVRの手技を着々と身に着けていった。愛知に暮らし始めて2年が過ぎた87年、施術中に事故は起きた。局所麻酔を行った後、注射針の針先に再びキャップをかぶせようとした。これは今日では禁じられている。その際に目算がずれ、自分の指を刺してしまったのだ。現場の針刺し事故は珍しくなかった。

 ただ運が悪いことに、患者はB型肝炎ウイルス抗原(HBs)のキャリアで、感染する恐れがあった。一瞬動揺を覚えたが、施術を中断するわけにはいかず、手袋だけを取り替えて処置を終えた。当時は48時間以内にヒト免疫グロブリン製剤を投与すれば、発症しにくいと考えられており、すぐに注射を打ってもらった。被汚染者が感染してウイルス肝炎を発症するのは、6カ月以内が目安とされていた。多忙な中、そんなことも忘れている間に半年の月日が過ぎていった。

8カ月後に発症、死を直感

 10月初旬に、札幌で開催された日本癌治療学会学術集会に参加した。新たな知見を得る絶好の機会と意気込んでいたが、朝から強い倦怠感に襲われた。経験したことのないだるさに、会場から早々に撤退し、ホテルの部屋に戻った。マッサージ師を呼び、腰をもみほぐしてもらうと、「お客さん、肝臓が悪いね」と言われた。

 名古屋に戻ると、翌日は血管撮影を行うことになっていた。同僚が患部を消毒するのを待つわずかな間も、立っているのがつらいと感じた。両手は手袋をはめているので手を挙げたまま、しゃがみ込んだ。同僚の勧めもあり、受けた検査の結果が緊急で返ってきた。肝機能を示すGOT(AST)とGPT(ALT)の値は、3000IUを超えて跳ね上がっていた。黄疸も出ていたはずで、劇症肝炎の可能性は決して低くなかった。8カ月前の針刺し事故の記憶が甦った。死を直感した。というのも、その夏、三重大学医学部附属病院でB型の劇症肝炎を発症した医師2人が死亡、看護師1人も重体に陥ったことが報じられていた。HBsウイルスは感染力が極めて強いため、1億分の1mLが入っただけでも発症する可能性があった。

 まだ35歳、「劇症肝炎なら、助からない」と確信した。であれば、信頼のおける医師に診てもらい、看取りまでしてもらいたかった。内科の年配の医師に電話し、全てを託した。

 そのまま個室に入院になった。B型急性肝炎が劇症化する確率は1%程度にすぎなかったが、発症者の致死率は9割を超えていた。劇症化を防ぐ有効な治療はなく、1週間経っても検査値が下がる気配はなかった。横たわっていても身の置き所がないだるさの中で、荒井の脳裏には、来し方の思い出が去来していた。

 荒井の父も医師で、勤務医を辞め、開業していた。荒井は次男で、子供の頃は、成績優秀な兄が医業を継ぐものと考えており、自分は文学部にでも入って、作家になりたいと夢想していた。高校3年になると文系クラスに進み、医学部受験の準備もしていなかった。しかし、その夏、冷静に考えてみると、一握りの文豪でもなければ、文筆だけで生計を成り立たせるのは難しそうだった。そこで、急きょ方向転換し、医学部を目指すことにした。

 高校時代から熱中していたのが、登山。山岳部に入り、本格的に冬山にも登っていた。そこで培った持久力には自信があったが、医学部入試を突破できたのは2浪の末だった。

死はいつも身近な存在だった

 医学部の山岳部のレベルでは物足りなく、高校時代の相棒と共に山に登り続けていた。医学部を卒業して、研修を始めたのは、国立東京第二病院(現・国立病院機構東京医療センター)だったが、ヒマラヤ遠征のため、5年間に2回、休職して長期休暇を取った。1回目はチョモランマの8100mまで、2回目は84年にナンガ・パルバットに挑んだが、雪崩に遭って相棒を失い、自分も怪我を負った。生と死は紙一重だと実感していた。勤務先は復職を認めてくれたが、さすがに居づらさを感じ、愛知県がんセンターに転職した。

 がん専門病院には、難治ながん患者が集まってくる。IVRは、根治を目指す治療だけでなく、緩和目的に使われる場面も多い。看取った患者は、既に100人を超えていた。死は、いつも身近な存在だった。遺書を書くつもりはなかったが、病床で募ってきたのは望郷への思いだった。

 「このまま東京の地を踏まずに死ぬのか。いっそ看護師の目を盗んで逃げ出し、新幹線に飛び乗ろうか」。看護師の巡回時間まで念入りにチェックしていたが、決行するまでには踏み切れずにいた。

 院内のスタッフは、そんな荒井の企てを知る由もなく、劇症化した場合の交換輸血療法に備えて、供血者を募ってくれていた。幸い、Rh+A型という最も多い血液型でもあり、50人以上が名を連ねていた。がん専門病院でこの治療はできないため、翌週に転院する手はずも整えていてくれていた。

 脱走は未遂のまま週が明け、月曜朝の採血。GOTとGPTは2桁にまで落ちていた。免疫力が、ウイルスに打ち勝ったのだ。抗体が一気に産生されていたと見られ、肝炎は鎮静化に向かい、生命の危機は去った。            (敬称略)

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