医療事故などで傷ついた患者・家族へのケアとともに、医療事故を起こしてしまった医療者のためのサポートを目的とした「Heals」が医療者や患者・家族、弁護士、学識経験者らによって昨年7月に設立された。代表理事に就いたのは、子供を出産直後に亡くした遺族であり、現在は看護師として医療に従事し、双方の立場が分かる永尾るみ子氏。永尾氏に設立のいきさつや活動内容などを聞いた。
——永尾さんは出産直後、お子さんを亡くされた経験をお持ちです。
永尾 20年以上前になります。クリニックで長男を出産しましたが、状態が悪く、大病院に移され「肺動脈弁閉鎖」と診断されました。その時まず思ったのが、仕事や上の娘達を含め「今の自分達の生活はどうなるのか」ということ。長男は生後1カ月、心臓のバイパス手術(体肺動脈短絡術)を受けました。「もう少しで一般病棟に移れます」と言われた翌日、病院から電話で「ミルクが詰まり、心臓停止、呼吸停止の状態です」と言われました。
——容態が急変した?
永尾 長男は仰向けだと不機嫌になるとの理由で、普段は哺乳瓶の乳首を吸わせ貼り付けた状態で、うつ伏せに寝かせており、窒息するのではないかという不安感や、普段の看護に対する不信感があったこともあり、「殺された」と思いました。小児循環器部長から状況説明を聞いたのですが、理解出来ず、「原因は分かりません。心臓病のため死因は突然死とつけられないので、死亡診断書には窒息と書かせて頂きます」と説明されましたが、納得出来ませんでした。3人の看護師さんに尋ねたところ、それぞれ時間の経緯とともに言うことが変わり、不信感が募っていきました。お葬式の後も、頻繁に病院を訪れては説明を求めました。病院側からは「万全ではなかったかもしれないが、最善は尽くした」と言われました。やがて誰も相手をしてくれなくなったのですが、病棟の担当医だけは「お子さんを元気に家に返せなかったことは申し訳ない。僕に出来ることはお母さんが元気になってくれること。聞きたいことがあれば、時間が許す限りお話しします」と真摯に向き合って下さり、「聞いても分からないんだ」という諦めと、医師の誠意と言葉かけに、「もう病院に足を運ぶのは止めよう」と思いました。
——1人で抱え込むことになるのですね。
永尾 足を運ぶ場所もない、責める相手もいない。となると、責める対象は自分です。「病気の長男を私は受け入れなかった。だから、あの子は天国に行ってしまった」と自分を責め、眠れなくなって、自分が分からなくなるまで毎晩お酒を飲んでいました。そんな時、新聞記事で「SIDS家族の会」を知ったんです。SIDSとは乳幼児突然死症候群のことですが、様々な理由で子供を亡くした家族のサポートを目的としています。すぐに電話をして、自分の体験を話しました。
患者・遺族の会との出会いで救われる
——気持ちは楽になりましたか。
永尾 電話の向こうの人は私のことを知りません。「泣いてもいいんだよ」と言われたことで構える必要がなくなりました。とても居心地が良かったんです。そのうちに、電話で話すだけでなく、遺族ミーティングにも足を運ぶようになりました。そこで、同じような体験をしている人もいるんだと気付いたんです。少しずつ落ち着いて、周囲のことも見られるようになりました。1年ほど経ってから初代会長である福井ステファニーさんから、ビフレンダー(ボランティア相談員)をしてみませんかと言われました。今度は自分が話を聞く立場になりました。電話を受ける側に立って、当初は、「誰かのために何かをしてあげたい」気持ちからスタートしたのですが、その道のりは自分が癒やされていることに気付きました。
——ミーティングではどんな話が出るのですか。
永尾 やはり医療者に対する不満が聞かれます。看護師さんから「お母さんがもう少し早く病院に来てくださったら、お子さんは亡くなりませんでしたよ」と言われた人もいます。その一言で「私のせいだった」「母親の資格はない」と自分を責めるようになり、二度と子供を産みたいと思わなくなってしまうのです。
——会に参加されるのはお母さんが多いのですか。
永尾 以前は母親が中心でしたが、時代とともに夫婦で来る方も増えました。ご主人が電話して来るケースもあります。ある時、医療者がミーティングに参加しました。いろいろと話されているうちに、「もう子供は産まない」と言っていたお母さんが「遺族に耳を傾けてくれる医療者がいたことで希望が持てました」と言って、妊娠を決意したんです。ミーティングに医療者も参加することで遺族も救われる。そのことに気付かされました。
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