森山成彬(もりやま・なりあきら)1947年福岡県生まれ。東京大文学部卒業後、TBS勤務。2年後に退職し、九州大医学部を経て精神科医、小説家(筆名:帚木蓬生)に。『三たびの海峡』(吉川英治文学新人賞)、『逃亡』(柴田錬三郎賞)、『水神』(新田次郎文学賞)など著書多数。2005年に同県中間市で精神科・心療内科を開業。
通谷メンタルクリニック(福岡県中間市)院長
森山成彬/㊤
還暦を目前に開業して3年目の2008年夏、精神科医の森山成(作家・)を急性骨髄性白血病が襲った。地域の仲間たちや母校の九州大学からの応援を得て、クリニックは、代診医達が診療を繋いでくれることになった。
放置すれば、頭蓋内出血や肺炎の危険もあるという一刻を争う状態で、入院後は無菌室に直行、速やかに化学療法が開始された。主治医の治療方針は明確だ。大量の抗がん剤を投与し、体内のがん細胞を壊滅させる。その後、自己の末梢血から採取した造血幹細胞を移植。化学療法は3クール目で寛解に至ったが、徹底してがん細胞を叩くため4クール目まで行われた。
四畳半ほどの無菌室は、治療に専念するための場だったが、思わぬ時間を森山に与えてくれることになった。診療と並行して続けてきた“日曜作家”が、生まれて初めて、“3食昼寝付きの専業作家”になれたのだった。
命を振り絞った『水神』で新田次郎賞
年1作と定めた作品はどれも重厚で、どの作品も100〜200冊の資料を読み込み、そこから必要な個所を抽出したファイルを作っている。発症した年は、地元の筑後川を舞台に、堰の建設を巡る農民と武士との魂の交流を描いた『水神』を執筆中で、入院した7月には前半を書き終えていた。終日を過ごす無菌室は“書斎”となり、消毒した原稿用紙や資料が持ち込まれた。ベッドで情景が浮かぶと、忘れないうちに書き留める……その繰り返しだ。副作用と闘いつつも、後編は秋には脱稿。翌年の作品に着手する傍ら、翌々年の資料の読み込みまでも進めた。
1時間置きに見回りに来る看護師達は、なるべく病床にいるように諭しはしたが、執筆には目こぼししてくれた。長期に渡る入院中に精神面が悪化する患者も多いとされるが、打ち込むものがあった森山にはそうしたことはなかった。命を振り絞った『水神』は09年8月に刊行され、翌年、新田次郎文学賞を受賞した。
病を機に診療を辞めて、以後は作家業に専念することも出来たはずだった。しかし、文学部卒業後、テレビ局勤務をし、回り道をして医師になった森山には、1日でも長く医師を続けなければならないという使命感があった。そして何より、森山の復帰を待ちわびている患者達のため、信じて代診を続けてくれていた医師達のため、クリニックに戻らなくてはいけなかった。
病名の開示で、患者の動揺は最小限に抑えられていた。18人の代診医が診察に当たったが、転院を希望した患者は1人のみ。それには、入院の少し前から“副院長”として、患者と交流を続けてきた「シン(心)君」の存在も見逃せない。柴犬のシン君は、いわゆるセラピー犬で、患者達は共に院長の病を悲しみ、快癒を願う思いを語り掛けていたという。残念ながら、ひどく落ち込んでいたとされる患者の1人が、自死を選んだ。
造血幹細胞移植は成功して、病状は徐々に快方に向かった。3度の一時退院時には、代診医の代診として診察室に入ると、患者は歓喜に包まれた。そして、08年12月28日、退院の日。半年に及んだ院長の不在に終止符が打たれ、日曜作家兼開業医の生活が再開された。
日本人の2人に1人はがんになる時代。これでもうしばらく、がんにならないかもしれないと、少し晴れ晴れとした心持ちもあった。自分の患者ががんだと分かった時も、「治りますよ」と、実感を込めて伝えられるようになった。がんが完治したと言えるのは、5年再発しなかった時だ。その通過点に、患者から「もう大丈夫ですね」と言われた。もっとも、主治医に尋ねると、「でも、いつかは死にますから」と、現実的な答えが返ってきた。
病の現実を受け入れ前向きに生きる
病はマイナスの面ばかりではなかった。「人生は限りがあるんだ。自分は死ぬんだな。もう無駄はいかんな」と、病前にも増して勤勉になった。
作家業では、「これが最後の作品かもしれないとの思いが浮かぶ」と言いつつ、10年先まで骨太のテーマが埋まっている。評価の高い作品が多いが、“売れない作家”であることも森山の強み。流行を追わず、他の作家が書かないテーマを丹念に追い、一見すると地味な人物の生き様に光を当てる。そうした意識も病を得てから強くなった。
16年には、代診を務めてくれた近隣の精神科医の仲間達と共に、ポル・ポト政権によって壊滅させられたカンボジアの精神医療を事情視察して報告するなど、診療以外の仕事にも精力的だ。
町のメンタルクリニックには、生きにくさを感じている地域の人達から、“よろず相談”のように、様々な悩みが持ち込まれる。中でも、病院勤務時代から森山が専門とするギャンブル依存症、そしてアルコール依存症の患者が多い。病を得る前の森山は、それを完治させることが「treatment」だと考えていた。
「美容院に行けば、シャンプーした後にトリートメントして、患者さんは心地良くなって帰っていく。定期的なケアで、そうした快適さが持続されればいいのかな」と、今は考えている。それは、定期的な通院が続く、自分の病にも通じる。
専門とする依存症の自助グループでは、いつも最後に「セレニティ・プレイヤー(平安の祈り)」を唱和する。「神様、私にお与えください。自分に変えられないものを、受け入れる落ち着きを。変えられるものは、変えてゆく勇気を……」と。
かつては人ごとだったが、今は自分のこととして心に染み込んでいく。白血病になったことは変えられないが、それを受け入れ、これから先も明るく前向きに生きていこうと、気持ちは変えられる。その通りに8年半が過ぎ、来年末には退院から10年の節目を迎える。70歳の誕生日に森山に感謝状を贈った元患者達は、きっとまた大きなサプライズを用意していることだろう。
その先には、80歳の誕生日がある。医師にも作家にも定年はないが、自分で70歳と決めていた定年は、健康を取り戻した今、80歳に延ばした。
毎朝、自宅から片道15分の道のりをシン君と共に歩いて通う。週末には、看護師長でもある妻と、診察室に飾る花を求めるついでに、買い物に出る。医業も作家業も座りがちの仕事なので、“職業病”の腰痛を克服しようとストレッチに励み、ダンベルを剣道の素振りよろしく、勢いよく振り下げる運動も、30年来続けている。
医学部時代に、「観察する」「資料を調べる」「揺さぶってみる(自分なりの考察をする)」という手法を教え込まれた。これが、患者の診療にはもちろんのこと、執筆業にも大いに生かされてきた。
「命の限りを知った人間は強い。精神科医も作家も天職かな」(敬称略)
【聞き手・構成/ジャーナリスト・塚崎朝子】
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