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未来の会

第99回 医師が患者になって見えた事
心臓外科医から転進した矢先に言葉を失う

第99回 医師が患者になって見えた事心臓外科医から転進した矢先に言葉を失う

陸前高田市国民健康保険広田診療所(岩手県陸前高田市)
所長
坪井 潤一/㊤

坪井 潤一(つぼい・じゅんいち)1966年埼玉県生まれ。93年旭川医科大学卒業。自治医科大学附属大宮医療センター(現・さいたま医療センター)。波田総合病院を経て、2002年岩手医科大学助手。22年から現職。

長年、心臓血管外科医として患者と向き合い、大学病院で勤務してきた。セカンドキャリアとして地域医療に飛び込んだ矢先に、大きな身体の異変に見舞われた。

手足は動いても文字が書けない

2022年4月、岩手医科大学附属病院(紫波郡矢巾町)から、東日本大震災の大きな被災地である陸前高田市の国民健康保険広田診療所の所長に転じた。単身でアパート住まい、コロナ禍ではあるが、1日数十人の患者と向き合う新たな日常で、大学病院よりはゆったり、その声に耳を傾けられるようになっていた。

大型連休に入り、盛岡市内の自宅に戻った5月4日の朝7時、リビングルームで埼玉の実家に1人暮らす母を思った。8日は、母の日。例年同様にカードを送ろうとペンを執った。「母の日おめでとう」と記すはずが、たったそれだけの文字が浮かばない。手足を動かすのに支障はなかった。麻痺もないが、文字が綴れない。母の顔も浮かび母の日も認識していたが、文字が出てこない……。程なく妻が起きてきたので、言葉を発しようとして、呂律が回っていないことに気付いた。自分の身の一大事を察した。

精密な心臓を支える外科を目指す

坪井は1966年、荒川を挟んで東京と接する埼玉県川口市に、3人兄弟の長男として生を受けた。幼少期によく熱を出し、扁桃腺を腫らしたが、その後は大病もせず、スポーツや勉学に打ち込んだ。地元の進学校である県立熊谷高校に進学。山岳部に入りたかったが、父方の伯父が山で遭難していたため、母の反対に遭い、ラグビー部に入った。

父は、テレビ会議や食堂で用いるICカードのシステム開発を手掛けるなど、有能なエンジニアだった。坪井も父親譲りの論理的な思考を備え、手先も器用だった。身内に医師はいなかったが、高校の半ばで医学部入学を見据えた。一方で、国際貢献のような道にも関心はあった。

熊谷は海から遠い内陸の地で、日本有数の“暑い町”として知られる。大学は寒い所に行きたいと考え、2浪の末、87年に日本最北端の旭川医科大学に合格した。

勉強を進めていくうち、精密機械のように動く心臓に関心を持ち、心臓外科を目指すようになった。93年に卒業すると地元の埼玉に戻り、自治医科大学附属大宮医療センター(現・さいたま医療センター)で、外科系を中心に5年間の研修を終え、98年に待望の心臓血管外科の助手となり、手術の腕を磨いた。

自治医大の卒業生であれば9年ほど地域医療に従事する義務があるが、他大学の卒業生も1年間だけ地域に勤めるとの規定があった。2000年、教授の伝手で長野県の波田総合病院(現・松本市立病院)で勤務することになった。消化器のがんなども含め、広く一般外科の診療に当たり、往診にも対応した。「大学病院で先端の医療を施した後も、患者さんの生活は続く。地域医療の重要性を痛感した」。標高700mの丘陵地にある波田町は、スイカの名産地。“日本一おいしい”スイカの甘さは、地域医療への思い入れと共に坪井の脳裏に刷り込まれた。心臓血管外科に戻り、さらに腕を磨きたいと、02年から第一人者の川副浩平がいる岩手医科大学で助手となった。

東日本大震災で変わり果てた岩手で

赴任して10年目の11年は、中堅医師として充実した日々を過ごしていた。大学勤務の傍ら、2週間に1回、岩手県立大船渡病院(大船渡市)に出向き、フォローアップの外来を担当していた。

3月11日、鹿児島市で日本自己血輸血学会学術総会が開催され、坪井も参加していた。午後2時過ぎ、携帯電話の地震速報のアラートが鳴った。東北を震源とした大地震らしい。学会は中断され、慌てて宿泊先のホテルに戻り、テレビをつけた。見慣れた三陸沖の海岸に大きな津波が押し寄せ、建物や車が次々と流されていた……。すぐに岩手に戻らなくてはいけない。

翌日に長女の中学の卒業式を控えていたため、埼玉の実家の両親は盛岡にいた。妻に電話して、両親と3人の子どもたちの無事を確認した。翌朝1番の飛行機で羽田に降り立ち、実家で1泊。東北に向かう飛行機を探し、秋田の大館能代空港に向かった。盛岡を目指して乗り継いだバスで、盛岡に帰省するという人に遭遇した。車に同乗させてもらい、午後3時には現地に辿りついた。

幸い市内のライフラインは復旧していたが、東北地方の厳しい状況を刻一刻と伝えるテレビ画面に目が釘付けになった。14日月曜から1週間は、片道1時間半歩いて大学に通った。火曜日は大船渡病院に行く日。高台にあった同院の建物は無事だったが、病院は機能不全で、外来診療も見合わせていた。太平洋沿岸の国道45号線が通行止めで、行くことは叶わなかった。

翌週は大学に落ち着きが戻りつつあった。45号線が復旧した日、大船渡病院での診療後、陸前高田に向かった。「空爆にでも遭ったようだ」と、変わり果てた光景に胸が締め付けられた。フォローしていた陸前高田市の患者のうち4人は亡くなったと知らされた。「人生は何があるか分からないな」との思いを強くした。復興を見守りながら、何より患者ファーストで、大学でも大船渡病院でも、できることを精一杯こなした。

10年から心臓血管外科病棟・外来医長となり、執刀は後進に譲るようになった。「後輩たちがうまくこなせば、患者さんのメリットになる」とメスを納め、管理業務などに没頭した。19年には盛岡市にあった大学病院が矢巾町に移転。心臓血管外科と循環器内科が統合された病棟で、看護師、看護助手、薬剤師、栄養士、理学療法士らと共に、最高の病棟を作ろうと勤しんだ。また、21年には日本医療機能評価機構の病院機能評価を控えていた。

多忙な業務に追われながら、震災を機に真剣に人生と向き合い、50歳を超えて次の道を真剣に考えるようになった。縁あって岩手に住み、未曾有の震災を体験した。20年近く住んだ岩手で、震災に遭った人々を支援する土地で働けないか。新たに地域医療の道を模索した。候補の1つ、陸前高田市の広田診療所は震災でダメージを受け、17年に高台に再建された。前所長は70歳を超えており、後任に採用された。

21年間勤めた岩手医大の心臓血管外科から地域医療の担い手として、総合診療医への転進だ。3月までは、引き継ぎや転居など、様々な業務に追われた。新天地へ踏み出すため、21年末に、盛岡市内の医療機関で全身のチェックをしてもらうことにした。

大学まではラガーマンだったが、医師になってからは専ら休日のゴルフ、体重は90kgまで増え、震災後は自転車を始めた。たばこは吸わない。飲酒した翌日は頭が痛み、手術に差し障りが出るため、酒も控えていた。飲み会の日は、敢えて当直を買って出るほど徹底していた。血圧は高めで、50過ぎから降圧薬を飲み始めていた。幸い、全身に大きな異常は認められなかった。

新たな気持ちで4月を迎えたが、5月4日朝に自宅で言葉が発せなくなった。妻に身振りで、電話で救急車を呼んで岩手医大の救命センターに運んでもらうように伝えた。自分のただならぬ状態を、「脳梗塞だろう」と冷静に見極めていた。(敬称略)


<聞き手・校正>ジャーナリスト:

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