地域医療を守る〝急がば回れ〟の採用戦略と課題
2024年11月末、順天堂大学はさいたま市浦和美園地区に設置を目指していた新病院の建築計画を断念すると発表した。資材価格高騰等で建設費が当初の想定を大幅に上回った事を理由としている。
埼玉県は、人口10万人当たりの医師数が180.2人と全国で最も少ない。首都圏に医学部は多いが、埼玉には埼玉医科大学1校のみ。県では北部や西部への医師派遣を拡充する為病院誘致に取り組んで来た。公募に応じて15年に選定された順天堂大は、計画では医師300人が勤務する病院となる筈だった。同大から県北部と西部の病院に医師2人が派遣されており、新病院の開院後は段階的に人数を増やし、年間20人の医師が派遣される予定だった。
県は、医師不足地域への派遣については引き続き協力を求めて行くという。しかし、理由となった建設費もさる事ながら、医師300人の確保が妥当な計画だったかという疑問も出されている。
採用ニーズと求職ニーズのズレ
最新の調査では、全国の医師数は34万3275人で過去最多となり、内8万人超を女性医師が占める(厚生労働省、22年「医師・歯科医師・薬剤師統計」)。前回(20年)から1.1%(3652人)増で低い伸びだが、34万人超えは初めてだ。医学部も16年と17年にそれぞれ1校新設され、超高齢化とも相俟まって、医師の増加は続いている。にも拘らず、医師不足は解消されない。正確に言うと、医師は地域や診療科により偏在しており、都市部に一極集中の傾向が強い。しかも、首都圏の埼玉県でさえ厳しい状況が存在する。関東の例では他に茨城県でも、水戸やつくば地区では医師は充足しているものの、日立、ひたちなか、取手、古河市等は医師不足で、地域格差が生じている。
診療科では、嘗てと比べると小児科、産婦人科の志望者は少なく、両科とも病院勤務より診療所等を選ぶ傾向が有るとされる。又、それ以上に深刻なのが長時間労働且つ不規則労働に陥りがちな外科医のなり手不足である。内科系でも、救急の多い循環器内科等は敬遠されがちだ。そこに追い討ちをかけたのが「医師の働き方改革」であり、24年から労働時間の適正化が本格化している。残業時間の上限規制は月45時間以内、年360時間が原則となり、ワークライフバランスを重視する医師は増加、タイムパフォーマンスを大切にする若手世代も登場している。
この様な状況下で、フリーアクセスを担保する医師の確保は極めて難しい局面を迎えていると言える。嘗ては、大学医局という盤石な医師供給体制が有ったが、新医師臨床研修制度の導入等で弱体化は否めない。大学も、分院や附属施設で臨床教授等のポジションを増やしてはいるが、最近では医局に頼らない医師も増えている。そうした中、近年台頭著しいのが、医師の人材紹介会社である。市場は、20年は227億円(前期比107%)だったが、22年には304億円(同112%増)に迄膨らんでいる(厚労省「一般職業紹介事業報告」)。
例えば、業界大手のエムスリーキャリアが抱える求人数は4万件以上 、日本の医師の約9割が利用するという医療情報専門サイト「m3.com」 から誘導され易い様になっている。「医師免許さえ有れば何処でも転職出来る」とは言い過ぎだが、売り手市場である事は間違いない。
こうした人材紹介会社への手数料は、医師の年収の約20%以上である。仮に医師の年収を1500万円とすると、1人当たりの手数料は300万円。300億円の市場では、年間凡そ1万人がこうしたサービスを利用している計算になる。医師が辞めれば、その医療機関は空いた穴を埋めなくてはならず、医師の流動性が結果的にまた人材紹介市場の拡大を後押しする事にもなる。
勿論、他業種でも人材紹介会社の活用は珍しくはない。しかし、漫然と紹介会社を頼みにして、兎に角医師を確保するという方向に走れば、拙速でミスマッチを招き兼ねない。今や医療機関と求職中の医師のニーズにはズレが有るからだ。
主体性の有る採用活動を目指す
人材紹介会社の中でも、経歴や専門性や取得資格等、スペックが高い医師は当然ながら人気が有る。だが、実際に採用に至ったケースでも、暫くして元からいるスタッフとの間に軋轢が生じるケースは少なくない。
経営層が鳴り物入りの“スーパードクター”を重用するあまり、医療チームが崩壊して部下の医師は退職、最悪は診療科自体を畳む事態もあり得る。組織文化の違いや仕事内容への不満等、どちらにも言い分は有るかも知れないが、採用した医師をおいそれと解雇する事は出来ないし、病院の規模によっては異動も難しい。医師に医師以外の職務をさせる事も当然出来ない。
採用を行う以上、ミスマッチは起こり得る事だと覚悟しても良いが、組織への悪影響が医療の質の低下を招き、患者離れを起こすという悪循環に陥る事は避けなくてはならない。その為にも、医師の求人を行う側は、自分達に合った医師像を明確にし、イニシアチブを握った求人活動をする必要が有る。売り手市場だからこそ、採用側も能動的な姿勢を明確にしておく事が互いにとって肝要だ。そして、医療機関と地域の特性に照らして、「こうした医療を展開したいから、この様なスペックの医師が何人位欲しい」という点を実質的に突き詰めて行けば、机上の空論の様な採用計画は生まれない筈である。
持続可能な労働環境の構築を目指して
医師の偏在が招く人材不足が深刻化する現代に於いて、医師が長期的に安定して働ける「持続可能な労働環境」を整える事は、医療現場の持続性を確保する為にも欠かせない課題である。この環境を構築する為には、以下の要素を総合的に取り入れる必要が有る。
最優先となるのは、適切な労働時間の確保である。医師の過労は患者への影響だけでなく、医師自身の健康にも大きなリスクをもたらす。これを防ぐ為にも、「医師の働き方改革」に基づく時間管理を厳守し、オンコール体制の改善やシフト制の導入を徹底する。十分な休息が保証される事で、医療の質もモチベーションも向上する可能性が高い。
次に、柔軟な働き方の提供が重要である。医師の中にも家庭や個人の事情を抱える者は多く、全員に対して同じ働き方を求められる時代ではない。時短勤務やシフト制の徹底等、多様なニーズに応じた働き方を用意する事で、働き続け易い環境が作られる。
又、公正な報酬と福利厚生も欠かせない要素である。医師の責任の重さや労働時間に見合った適正な給与が提供される事は勿論、住宅手当や研修費用の補助、更に定期的な健康診断やストレス軽減の為の相談窓口の設置といったメンタルヘルスケアの支援等、包括的な福利厚生の充実は、差別化を図り易く求人時のポイントとしても謳い易い。
職場環境に於いては、チーム医療の推進が鍵を握ると言えるだろう。医師が孤立せず、看護師や薬剤師、医療事務スタッフ等と協力して業務を進められる体制を整える事で、診療に集中出来る効率的な環境が実現する。同時に自己研鑽の機会も重要であり、学会参加や研修制度の充実、最新の医療技術を学べる場の提供は、医師のキャリア向上と「やりがい」に直結する。
これらの要素を通じて、医師が社会的意義と自己実現を感じられる環境を整えて行く事は、地道で時間の掛かる取り組みではあるが、重要な作業と言える。そして、この様な労働環境が医療現場に根付けば、医師にとっては長期的に安心して働ける職場となり、引いては医療全体の安定にも寄与するだろう。医師に限らないが、働き手が職場において心身共に安心・安定して職務を全うする事が出来れば、「やりがい」をも大きく高めると言えるからだ。
医師の採用は、一筋縄では行かない点が数多く有り、それ故の不足や偏在ではある。しかし、採用に際して「地域医療を守る」という観点が抜け落ちてはいけない。国民皆保険の下、医療の化、誰もが日本の何処にいても適切に良質な医療にアクセス出来るという事を肝に銘じて、医師が健やかに働き続けられる持続可能な医療現場作りを推進して行く事を、今一度徹底したい。
LEAVE A REPLY