SHUCHU PUBLISHING

病院経営者のための会員制情報紙/集中出版株式会社

未来の会

第31回 私と医療 ゲスト 武久 洋三
平成医療福祉グループ 会長

第31回 私と医療 ゲスト 武久 洋三平成医療福祉グループ   会長
GUEST DATA:武久 洋三(たけひさ・ようぞう)①生年月日:1942年1月6日 ②出身地:徳島県 ③感動した本: 『こうすれば日本の医療費を半減できる』(武久洋三) ④恩師:山田正興先生(徳島大学大学院 基礎医学) ⑤好きな言葉:「人は進化する。病院も進化しなくては」 ⑥幼少時代の夢:外交官 ⑦将来実現したい事:日本の医療の健全化
外交官になる夢を捨てて医学部へ

戦時中に徳島で生まれました。防空壕から町が燃えるのを眺めていた事を微かに覚えています。中学生の頃から英語が得意で、弁論大会にも出場し、将来は外交官になって海外に住みたいと考えていました。

私は4人兄弟の3番目で、14歳離れた姉が医師と結婚したのが切っ掛けで、私の兄が医学部に進学し、私も医師になる事を勧められました。ところが文科系だった私は物理と数学が嫌いで、医学部に入れる筈が無いと思っていました。後から聞いて分かった事ですが、医学部の入学試験は数学・理科が300点満点、英語が100点満点、国語・社会が50点満点という配点が多かったそうです。唯一受かった岐阜県立医科大学では全科目が100点満点でした。県立大学では定員の半分が県民でなければならないというルールが有り、50倍という高倍率のところ運良く滑り込む事が出来ました。

高校3年の時に父の事業が失敗し、6年間仕送り無しの学生生活でした。奨学金にアルバイト、麻雀で生計を立て、卒業する時には貯金が300万円になっていました。最後のインターン生として、安保闘争に影響され、唯一、医師国家試験をボイコットした学年でした。

船医として南アフリカへ3カ月間の大航海

インターンを終え、徳島大学の大学院に進学して恩師の山田正興教授と出会いました。26歳の時、世界で初めて心臓移植を成功させたクリスチャン・バーナード医師に会いに行く為、船医としてケープタウンに渡りました。山田教授に3カ月間の休暇を願い出ると、「面白そうだから行って来い」と快く許しを与えてくれたのです。シンガポールからアフリカに至る1カ月間は見渡す限り海だけの生活でした。ケープタウンに到着して船が停泊している間にバーナード医師を訪問し、面会を果たす事が出来ました。

帰国後、海外から来た学生グループを引き連れて国内を案内して回る事になり、九州の旅先で旅行中の妻と出会いました。当時妻は東京に住んでいましたから、夜行船に乗って会いに行ったものです。1年間の文通の末に、27歳で結婚しました。

日常生活への復帰の為のリハビリを導入

42歳の時、徳島市に平屋建ての60床の博愛記念病院を開院しました。大病院と張り合うつもりは毛頭無く、急性期病院は周りに沢山在ったので、慢性期病院としてスタートしました。それがニーズにはまり、直ぐに満床になりました。1985年の地域医療計画で病床を自由に増やす事が出来なくなる事を知り、猶予期間の2年間で一気に210床まで増やしました。

当時は今ほど高齢化が進んではいませんでしたが、高齢者は病気になると回復し難く、長期入院が当たり前という時代でした。こうした状況に疑問を感じ、高齢の患者さんが1日も早く日常生活を取り戻せる様な病院にしたいと考えました。自らリハビリの資格を取得し、回復期にも力を入れました。リハビリと言えば、歩く練習が一般的ですが、自宅に帰るには「食事」と「排泄」を自分で行える事が基本になります。特に、排泄を介助して貰うのは多くの方が抵抗を感じます。そこでベッドサイドにポータブルトイレを設置し、自分の力で行き来する訓練を取り入れて来ました。しかし、退院出来たとしても介護を要する高齢者は多く、その受け入れ先として介護老人保健施設の併設も進めて行きました。

徳島と淡路島を結ぶ大鳴門橋が開通して暫くすると、淡路島から三原町(当時)の町長が訪ねて来て、病院を作って欲しいと懇願されました。次に明石海峡大橋が完成すると、本州からも次々と声が掛かる様になりました。

損得勘定無しの病院立て直しに全力投入

「独立独歩」の父親譲りの気質なのでしょう。頼まれた所には何処にでも行き、病院や介護施設の新設や経営の苦しい施設の運営を引き受けて来ました。損得を考えた事は有りません。

例えば、病気を治す為には「睡眠」と「栄養」が重要ですね。具合が悪くなってから4人部屋や6人部屋で過ごすのは大変ですから、私の病院では、20年程前から全室個室化を進めて来ました。管理栄養士は、施設に2人でいいところ各病棟に1人ずつ、計10人以上採用しています。そして、管理栄養士に食材の購入費用の経費負担を許可し、食事を残している患者さんがいれば、食べられそうな物を聞いて直ぐに作れる様にしました。又、介護施設では、女性に化粧をして差し上げる事も有ります。化粧をした自分の姿を鏡で見ると、見違える様に元気になり、生きる意欲が沸いて来るのです。

こうして100施設を超えるグループへと成長し、約1万4000人の職員を抱える迄になりました。2年前にグループ代表を息子に譲り、今年1月に創業40周年を迎えました。私の代から叩き込んだ「患者さんを絶対に見捨てない」という理念が今も引き継がれ、安心して後進に任せられる様になりました。これからは、日本の医療の健全化の為に力を尽くしたいと思っています。

急性期病院から日本の医療を変える

以前、当グループ病院の入院患者さんの統計を取ったところ、急性期病院から紹介される患者さんの実に90%が要介護者である事が分かりました。つまり、介護やリハビリが必要な方がそれだけいるという事です。ところが急性期病院は、元々介護やリハビリには不慣れな上、重傷者が多く、夜中の頻回な排泄介助にも手が回りません。その為、事故防止という名目で高齢者の身体拘束を行っている急性期病院が少なくありません。

しかし、高齢者は急性期病院に入院している1〜2週間という短期間で急速に体力が落ち、要介護状態が進行するのです。歩いて入院した人が寝たきりになって帰って行くという有様です。これについては10年以上前から指摘し続け、漸く今年の診療報酬改定でこの打開策となる改定が行われる事になりました。私はこれを「急性期病院革命」と呼んでいます。リハビリ、栄養管理、口腔管理をきちんと行っている病院は増収になり、身体拘束を行っている病院は減収になる仕組みです。今回の改定によって要介護者が減り、医療費や介護費の削減にも繋がると考えています。

10年前に、東京都足立区の精神病院の経営を引き受けました。その当時は、閉鎖病棟の畳敷きの部屋に10人が押し込められて気の毒な環境でした。5年前から改革し、今年7月に自立支援型にリニューアルしました。こうした改革を全国へ広げて行きたいと思っています。

インタビューを終えて

御年82歳ながら、今では死語となりつつある「日本男子ここに在り」がぴったりだ。お洒落なファッション、お洒落な会話、立ち姿の格好良さ、そして何よりお洒落に夫人とのスローダンスを披露する。それは痛快な人生を走って来たからだろう。英語が得意な文系の少年は外交官を夢見たが長姉の結婚から医師という職業を知る。苦手な理系も何のその、狭き門の医学部に滑り込む。父親の事業の失敗で大学6年間を自身の稼ぎで突き抜ける。卒業時には手元に300万円があったと言う。昭和41年の大卒初任給は2万3000円とあるので、サラリーマンの10年分の年収に当たる。その勝負強さと不思議なパワーが病院経営に投下されたのだろう。医療後進県だった徳島から見事に一代で医療介護グループを築いた。モットーの「患者を決して見捨てない」を周知徹底し、病院26件、特養27件、老健11件など、総計100施設を超えるまでになる。驚きの一語だ。夏の徳島は阿波踊り一色と言う。阿波踊りを愛し、患者を愛し続けた波瀾万丈の人生は益々健在だ。(OJ)


但馬牛血統の雌牛を厳選するオークラ牛は、脂の融点が低く、肉の甘みと旨味が特長。絶妙な火入れのリブロースで野菜を巻く繊細な一皿と、ザ・プレミアム・モルツの深いコクが見事に調和。

鉄板焼 さざんか
東京都港区虎ノ門2-10-4 オークラ プレステージタワー 41F
03-3505-6071
11:30~14:30
17:30~21:00(L.O.)
無休
https://theokuratokyo.jp/dining/list/sazanka/
※営業日・時間に変更がある場合がございます。店舗HPをご確認下さい。

 

 

 

 

 

LEAVE A REPLY

*
*
* (公開されません)

Return Top