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第91回 医師が患者になって見えた事
37歳で左手麻痺から脳梗塞疑いで救急搬送

第91回 医師が患者になって見えた事37歳で左手麻痺から脳梗塞疑いで救急搬送

長野原町へき地診療所(群馬県吾妻郡長野原町)
所長
金子 稔/㊤

金子 稔(かねこ・みのる)1984年群馬県生まれ。2011年自治医科大学医学部卒業。群馬大学医学部附属病院初期研修医。13年同救急部。15年から現職。

救命救急医を志していたが、自治医科大学を卒業して地域医療の義務を果たすため、へき地診療所に着任。7年が過ぎようとする2022年3月、多忙を極める中で、突然の病に見舞われた。

動かなくなった左手と救急搬送

20年から始まったコロナ禍への対応は新たな日常となり、ワクチン接種の業務も加わってきた。休診の火曜午後や土曜日も、町の接種会場に駆り出された。診療所の管理者であり、年度末の締めの仕事も山積していた。

妻と2人の子どもは前橋市内で暮らし、平日の金子は、町内にある西吾妻福祉病院の職員宿舎住まいだ。月曜の夜に病院で当直をし、そのまま火曜午前中の外来を担当する。診療所の1日の仕事を終えると、コンビニエンスストアでつまみを調達してビールを飲み、弁当をかき込む日々だ。診療は8時半からだが、毎朝7時半には診療所に着いて仕事をこなしていた。その日はいつも以上に疲労がたまっていたようで、泥のように寝入ったが、翌朝6時に目が覚めた。起き上がろうとして、異変に気づいた。左手が上がらず、物を掴むこともできない。「寝違えたか」と、間隔を置き何度か試みた。痛みはなく、末梢の「橈骨神経麻痺」という病名が真っ先に頭に浮かんだ。

右手だけではマスクを着けるのもままならなかったが、何とか身支度を整えた。宿舎から診療所までは11km、車で15分の道のりだ。オートマチック車だったため、右手だけでハンドルを操り、診療所に辿り着いた。診察室で座っていたが状況は改善せず、左手は動かないままだった。ベテラン看護師が、金子の不自然な動きを見て取り、ストップをかけた。休診にし、すぐ病院を受診すべきだという。血圧を測ってもらうと170/90mmHg、明らかに高かった。

西吾妻福祉病院は、自治医科大学の学生の研修先になっている。その日は最終日で、後輩に当たる学生が診療所に迎えにきてくれた。通勤路を逆戻りして運ばれる道すがら、口数は少なかったが会話はでき、意識もはっきりしていた。それでも、「ただならぬことが自分の身に起こっている。中枢神経が傷害された可能性がある」。最悪の可能性を想定した。

病院でMRIを撮ると、脳に明らかな病変は認められないが、「脳梗塞」の疑いも否定できないと診断された。精密検査のために転院の必要があった。群馬大学医学部附属病院(前橋市)への救急搬送に、金子も同意した。4年間研修を受けた古巣であり、看護師である妻の勤務先でもあった。

「命を絶対救う」救急医を志望する

金子は1984年、前橋市に生まれた。父は郵便局に勤務し、3歳下の弟がいる。才気煥発で、小学校から野球部で活躍。算数や数学が得意で、数学の教師になりたいと考えていた。中学2年生で、テレビの人気ドラマ『救命病棟24時』にはまった。孤高の天才外科医が、的確な判断で患者の命を救っていく。命を救うために妥協しない姿を見て、自分もそうした救命医になろうと、進路を見据えた。高校は、県下トップの群馬県立前橋高等学校に入った。入学時は322人中16番の成績だったが、気を抜いた1年の終わりには315番と低迷。奮起して3年の最後に30番まで戻したが、勢いで医学部に滑り込み合格とはならなかった。

父方に看護師のおばがいたが、親族に医師はいない。両親は、医師を目指す金子を励まし、「1浪まで。私学なら医学部以外で」という条件付きで、東京の予備校に送り出してくれた。2回目のセンター試験も思わしくなかったが、幸い、地域医療への従事を条件に学費返還を免除される自治医科大学(栃木県下野市)に合格した。「救急志望は揺らがなかったが、へき地医療も面白そうに思えた」。

自治医科大学は全寮制だ。野球部に入り、学業にも打ち込んだが、3年次から4年次に進級できなかった。浪人も留年も大きな試練で、強い挫折感を覚えた。2011年に卒業すると、2年の初期臨床研修を群馬大学医学部附属病院で受け、そのまま救急部で後期研修も始めた。卒後2年目に結婚。大学で1級下の妻は、野球部のマネジャーだった。一足早く千葉で看護師になっていたが、群馬大に転職した。 

自治医大の卒業生に課された県内の義務年限は、6年で卒業すれば9年だ。県内に9つあるへき地診療所のうち、卒業生が派遣される先は6つ。長野原町に15年に空きが出て、4月に所長として赴任した。

県北西部の長野原町は、面積の80%を山林・原野が占めており、南部の北軽井沢地区は別荘地だ。人口は約5300人で減少が止まらず、高齢化率は40%に迫る勢いだ。多様な世代、ありとあらゆる訴えの患者が訪れる地域医療は、救急と通じる。金子はすぐにうちとけ、幅広い層に向き合った。

町民と顔なじみとなり、文字通り家庭医として家族全体に接した。頼られる責任感が心地良さへと変わるのは早かった。その夏には、3年の任期を4年にしたいと町長に伝えた。そして2年目、「10年勤めたい」と再度申し出ると、町長は度肝を抜かれたようだった。「自分がいなくなった後も回っていく医療体制を作る」ため、腰を落ち着けたかった。訪問診療もあり、看取りにも立ち会うが、それもやり甲斐となった。

14年の長男誕生に続き、16年春には長女が誕生した。再度の育児休暇が明けるまで長野原町で4人で暮らしていたが、妻が群馬大に職場復帰するのを機に、いったん一家で前橋に移り住んだ。金子は良い父親であろうと、車で1時間の道を通勤していたが、予防接種、往診、在宅看取り……などで、帰れない日も多かった。無理はせず、週末だけは帰宅し、家族との時間を存分に楽しむという今の生活になった。

地域に溶け込みコロナ対応にも奔走

10年と決めた任期が折り返す頃、未曾有のコロナ禍が発生した。発熱患者に対応すると決めたものの、ガウン、マスク、キャップなどの感染防護具が払底していた。初期には、動画サイトを参考にして、看護師がゴミ袋から手作りしたガウンを使った。感染を避けるため、一時は、かつて学童保育をした建物で発熱外来を行った。しかし建物の老朽化が激しく、再度、診療所横に3畳ほどの中古のプレハブを買い、診察室にしつらえた。

その間も他の患者も引きもきらず来院し、コロナ禍で入院が避けられた結果、往診の希望も増えた。20年に前橋市内に新居を構えたが、何週間も帰れない日々が続くこともあった。そして、たまりにたまった過労が、大病の引き金を引いた。

慣れ親しんだ群馬大の救急外来に、生まれて初めて患者として搬送された。ストレッチャーに乗せられ、様々な検査に回された。入院手続き中、手術部に勤める妻と、前橋市消防局にいる弟が駆けつけてくれた。弟は救命救急士で、かつてはここで、兄弟間で患者のリレーをしたこともある。

妻は、「久しぶりに帰ってきたと思ったら、こんな状況だなんてね」と、明るい笑顔を覗かせた。面目ないと思いつつ、何より安堵した瞬間だ。

高精細な画像検査の結果、「右脳に脳梗塞巣がある」という最悪の診断結果を突きつけられた。家族や元の仕事仲間たちに見守られながらも、自然に涙が溢れ出た。左手はなお動かせなかった。「医師の仕事を続けられるだろうか」。(敬称略)

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