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未来の会

第90回 医師が患者になって見えた事
両側乳がんを乗り越え夢の実現を目指す

第90回 医師が患者になって見えた事両側乳がんを乗り越え夢の実現を目指す

産婦人科 専門医
山本 かおり/㊦

山本 かおり(やまもと・かおり)1977年長野県生まれ。2003年兵庫医科大学医学部卒業、信州大学医学部産科婦人科学教室入局。06年伊那中央病院、10年長野赤十字病院を経て、18年から複数の医療機関で嘱託医。

2020年クリスマスイブ、非常勤で勤務する長野赤十字病院で手術を受け、右乳房の早期乳がんを部分切除で取り切った。傷跡も小さく、正月休みが空けると仕事に復帰した。治療には続きがあった。1月末から通院し、2.0グレイの放射線を25回、計50グレイ照射する。前後して、女性ホルモンの分泌を抑えるため、3カ月ごとのゾラデックスの注射とノルバデックスの内服も始めた。放射線照射は毎回1〜2分で、勤務を終えた夕方に治療を受けることができた、皮膚症状も最小限で治まった。

乳がんの好発年齢は40台後半以降で、山本の43歳の発症はやや早い。同期の乳腺外科医からは、抗がん剤までのフルコースを勧められたが、そこまではしないと主治医と出した結論だった。手術から1年の節目、12月のマンモグラフィと骨シンチグラフィーで再発・転移は認められなかった。念を入れて受診したCTも異常なしだった。コロナ禍は続いていたが、女性の健康を支援する仕事を順調に続けていた。

翌22年夏、恒例の人間ドックを受けた。右乳房にがんが見つかった2年前と同じく、オプションで乳腺エコーも選択した。術後のフォローアップを受けているのだから、不要ではないかと言われた。しかし山本は、がん検診で推奨されるマンモグラフィより、エコーのほうが変化を見つけやすいと考えていた。

ドックのエコーで左乳房にがん発見

8月15日ドックを受診、その翌日、またも予期せぬ電話があった。あろうことか、今回は左乳房にがんの疑いがあるという。両側乳がん——右乳房の宣告の時以上にショックだった。年末にエコー検査がなかったことを恨みもしたが、1cm未満のがんで8カ月前は見つからなかった可能性もある。いずれにせよ早期発見で根治できるだろうと、前向きに捉えた。相変わらず日赤は混み合っており、CTは3週間後、PETはさらに3週間後、もどかしかさが募った。検査の結果、右側は乳管にできた硬がんだが、新たに見つかった左は小葉がんが含まれ、乳がんの再発・転移ではないとのことだ。小葉がんは乳房内に散らばりやすいとされ、早く手術を受けたかったが、11月末まで手術の空きはないという。

やや動揺し、他院に移るという選択肢も脳裏をかすめた。しかし結局のところ、前回と同じく執刀医となった浜善久の治療方針への信頼が勝った。「こんなに待って、大丈夫ですか」という問いを、心の底に追いやった。ホルモン剤内服中にもかかわらず、再び乳がんが発覚したことで、最大の懸念は、遺伝性乳がん卵巣がん症候群(HBOC)である可能性だった。遺伝学的検査を受けて陽性であれば、卵巣も合わせて切除する必要がある。幸い陰性で遺伝が否定されたことは、家族にも大きな朗報だった。

通常の勤務を続けながら、手術を待った。初期であり部分切除を勧められたが、全摘して再建もしないとの希望を伝えた。2人の息子は、小学生と中学生。18年に子宮筋腫で子宮を全摘している。「この後出産することはなく、乳房に固執しなくていい」。執刀医の浜から、手術前日に念押しのメッセージが来た、「本当に全摘でいいの?」。山本の決意は揺るがなかった。全摘であるため、神経なども一部切断した。部分切除だった右側と違い、病室に戻り麻酔が切れると痛みに襲われ、鎮痛薬を所望した。ドレーンが抜けるまでには1週間ほどかかった。手術後、浜からは、「やっぱり全摘で良かったね」と言われたことで、せいせいした思いだった。

コロナ禍で始めた山本の趣味の1つが、毎朝のランニングだった。1時間かけて約10kmの川沿いの道を往復し、大会に出るまでになった。抗がん剤治療で身体にダメージを受ければ、走るのはしばらく諦めなくてはならなくなる。SNS上で知己となっていた乳腺外科の専門医が相談に乗ってもらうことになった。セカンドオピニオンのつもりで、包み隠さず経過を話し意見を仰いだ。がん細胞の遺伝子検査(オンコタイプDX)を受けて決めればいいという。そこで低リスクと判断された。「右は放射線を受けたし、左は全摘。今は過剰な治療はしなくていい」。抗がん剤は回避したが、ノルバデックスは右乳房のがんから数えて12年間飲み続けることになる。長期の服用では、年齢によっては子宮体がんのリスク増加が知られているが、「子宮がないからラッキーだね」と、周りの女医たちに言われた。山本と同様にサバサバとした仲間たちだ。

富士山登頂 マラソンは4時間切り目標

厳密に言えば、身体の左右のバランスは、少しだけ悪くなったのかもしれない。左側が肩こりしやすいかなとも思うが、日常生活に支障はなく、今のところ、「病でできなくなったことはない」と言い切れる。マラソンにも復帰し、フルマラソンで4時間を切るのが目標となった。もう1つの趣味が登山。四方を山に囲まれた長野県に生まれ育ったが、山に苦手意識があった。研修医時代、高額のバイト代に釣られて中学生に同行、1泊2日で西駒ヶ岳登山をした。張り切って新調した登山靴で靴擦れを起こし、斜めがけのカバンに詰めた荷物で疲労困憊し、トラウマで山から遠ざかっていた。しかし22年から、日本家族計画協会の仲間たちの登山のグループで連れ立って登るうち、俄然面白くなった。2度目の手術の翌23年夏には、富士山登頂を試みた。高山病予防のため、漢方の五苓散を持参したが、3000mを超えると、頭痛や倦怠感に襲われた。何とか力を振り絞って、御来光を拝むことができた。登山の楽しみと言えば、帰路に温泉などに立ち寄ることだ。仲間たちは、山本の手術を承知している。見知らぬ大勢の人と一緒になる大浴場を除けば、入浴もためらうことはない。

若い子が身近に相談できる場を作る

がんを発症した時に自分が医師であったことは、プラスに働いたと思える。「早期発見の大切さを認識し、標準治療がベストだと理解していた」。図らずも、身をもって経験することになった。

持ち前のポジティブな性格は変わらず、この先いくつも実現したい夢がある。1つは、特定妊婦のフォローだ。何らかの障害やDV、経済的な事情などで、出産後の養育について出産前の支援が特に必要と認められる妊婦たちがいる。病院では特定妊婦のケアは収入にならない。「若い子たちが、自分の体について身近に相談できる施設を作りたい」という希望は、自身の闘病をきっかけにより強くなった。例えば、緊急避妊薬(アフターピル)は自費だが、クラウドファンディングなどによって、無償で提供できる仕組みも作りたい。「アフターピルに辿り着いたことを褒めたい。少子化対策は単に子どもを増やすのでなく、女性が自己肯定感を高め子育てができる仕組みが必要」と考える。思いを共有する同志と夢は広がる。

学校で性教育をする機会が増え、思春期の子たちが来院しやすくなったと感じる。一方、同伴する母親は、産婦人科へのハードルが高かった世代である。母親たちも気軽に訪れる場としたい。

「死を意識することはないが、何年か先に、また、がんが出てくる可能性はある。今やりたいことは、今やっておこう」(敬称略)

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