水澤 英洋(みずさわ・ひでひろ)
国立精神・神経医療研究センター 理事長特任補佐、名誉理事長
東京医科歯科大学 特命教授、名誉教授
留学先: Montefiore Medical Center(1986年7月〜88年10月)
1986年7月私達家族はニューヨークのJFK空港に降り立った。生涯の友となる加藤丈夫先生が大きな米国車で迎えに来てくれていて、最初の夜は赴任先の近くのモーテルに泊まった。当時1歳直前の長男がその部屋で初めて立って歩いたことが、とても印象に残っている。
留学先はAlbert Einstein医学校の関連病院であるMontefiore Medical Center(MMC)、神経病理部門のAsao Hirano(平野朝雄)先生のところであった。大学はハーレムの対面の南ブロンクスにあるが、MMCはウエストチェスター郡に接する北ブロンクスにあり、治安は比較的良かった。平野先生は神経学の勉強のために留学されているときに神経病理学に興味を持たれてその研究に入られた方で、日本、米国は勿論、世界的にも有名な方であった。従って、米国人の研修生や外国人の留学生もいたが、最大勢力は日本人で、脳神経内科医、脳神経外科医、精神科医、老年科医、病理医など多くの分野から留学に来ていて、大変賑やかであったが、英語を使うチャンスが少ないことが問題であったかもしれない。留学期間は様々で1〜3カ月位の短期の方から、1〜3年と長めの方々までおられた。
当時は平野先生の先生であるHarry M. Zimmerman先生もご健在で、既に80歳は超えておられたと思うが、毎週木曜の朝の脳外科、放射線科、神経内科との合同カンファランスの後はキャフェテリアでお茶を、その後神経病理に留まらず様々なお話を伺うのが楽しみであった。コネチカットの農園に招待して貰った時は、自らトラクターを運転して牧草を運ぶ姿には驚嘆させられた。先生のオフィスはアパートと病院の中間にあり、幼い長男も大変かわいがっていただいた(写真①)。
エイズの世界的蔓延と神経病理の研究
この留学は本来もう少し早く実現していたはずであった。84年2月に筑波大学臨床医学系神経内科に講師として着任したが、実は筑波大学では着任後2年間は留学などの移動が禁止であった。さらに、2年ほど前に父を亡くしており、新潟県は頸城(くびき)の実家に母1人を残しており、アカデミック・キャリアを求めるというよりは、恩師の豊倉康夫教授を始め岩田誠先生、井上聖啓先生、中野今治先生が留学されたラボで平野先生の謦咳に接したいという思いであった。幸い、フルブライト奨学生に選ばれ、MMCのリサーチフェローにも採用されて、病院の敷地内にあるアパートに入室することができたが、麻酔科の金城実先生ご一家が住んでおられ、先ずは部屋に敷く絨毯を購入するところからはじまり、いろいろ教えていただいた。
MMCには多くの神経疾患の膨大な神経病理標本が集積されており、研究では筋萎縮性側索硬化症、パーキンソン病、アルツハイマー病などのほか、希なプリオン病、進行性核上性麻痺などについても症例担当を契機に論文をまとめることができた。ブレインカッティングは毎週水曜の午後であったが、脳外科の手術標本なども担当し、脳腫瘍についても勉強するチャンスが沢山あった。予想外だったのは、当時まだ原因不明で致死性であったエイズが世界的に蔓延し始め、米国内ではサンフランシスコとニューヨークが2大多発地域であったため、必然的に多数の症例の神経病理所見を研究することとなった。ニューヨークは特にIVDA(Intra-Venous Drug Abuser)と呼ばれる人達が多かった。その内100例をまとめて報告したが、微小血管障害病変の存在など新しい所見を発見することができた。例えば蚊に刺されたときにはどれくらいの血液量なので、感染する・しないといった記事がサイエンスなどの一流誌に載る様な時代であり、真面目に心配したことをよく覚えている。
エイズとは、Acquired Immune Deficiency Syndromeの略語であり、特に細胞性免疫の障害の結果様々な感染症を併発するため、必然的に感染症にも詳しくなることになった。帰国後は、感染症の専門家のように扱っていただき、日本神経感染症学会の大会長や役員に推薦されて理事長を長く務めることの一因となったと想像している。留学時の最初の論文の1つがNuclear bridgeと名付けた多核巨細胞の記載で、今もってその出現機序は不明である(写真②)。
留学中の思い出と感謝の気持ち
よく言われるように、2年位すると留学先にも慣れてきて研究成果が出るようになり、FAXや郵便で遣り取りして、留学期間を1年延長してもらえることになった。ただ、やはり古いタイプというか、当時の筑波大神経内科の中西孝雄教授が翌年の日本神経学会総会で会長をされるということを伝え聞き、早く帰ってお手伝いをすべきではないかと考え、結果的には3カ月程度の延長で88年10月には帰国した。米国の環境は非常に性に合っていて、母も意外にも1人で元気にしていてくれたことから米国に残りたいという気持ちも強かったが、最終的には帰国することになった。
帰国してみたら学会の準備はほぼ決まっており、担当となったエイズのシンポジウムについては平野先生ともう1人筑波からサンフランシスコに留学していた荒崎圭介先生に依頼することにしたので、特別の手伝いも無く翌年5月に無事に終了した。その後、中西先生はご定年を待たずに転出され、田舎に帰ろうと思っていた自分がずっと大学に残ることになったのも、この留学のご縁かもしれない。
仕事の合間には、平野先生も含め皆でよくピクニックに出かけたり、同じアパートの人達と観光に出かけた。夏など夜の8〜9時でも明るく、5時に仕事が終わってから出かけても十分楽しむことができた。車でちょっと走ればもう大自然が迎えてくれ、大都会の近郊にワイナリーもあることを知って吃驚した。ピクニックでバーベキューというのが定番であるが、銃の射撃場に行くなども米国ならではの経験もあった。さらに平野先生のところには色々な来客がありご紹介いただいたことも良い思い出である。例えば日本神経学会理事長の椿忠雄先生が来られたときは、近くのウッドローン墓地にある野口英世、高峰譲吉のお墓を案内したり、加藤先生と2人でブロンクスのニューヨーク植物園やエンパイア・ステート・ビルディングなどをご案内した。
この留学は私のみならず家族全員にとっても良い経験だった。妻は音大を出てピアノを専門としていたが、幸いアパートの部屋が大きかったので小さなピアノを購入し、家でも弾くことができた。知人を介してジュリアード音楽院に通うと共に、個人レッスンを受け、カーネギーホールでの発表会やニューヨーク日本人会での演奏など思い出に残る活動ができた。息子はちょうど1〜2歳であったが、近所のコミュニテイで受け入れてもらい、妻が出かける時は近隣の人などに預かってもらうなど、多くの人にお世話になった。この機会に改めて、お世話になった全ての方々に感謝申し上げる次第である。
また、既に鬼籍に入られた恩師の豊倉先生、平野先生、Zimmerman先生、先輩の中野先生、同僚の日高徹雄先生には、心よりご冥福をお祈り申し上げる次第である。
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