以前から述べてきたように、日本の医療レベルは国際的にも評価が高い。コロナ禍で様々な議論が出てきたとはいえ、当時の人口当たり死亡者数などを見ている限り、現在も引き続き同じような評価でさしつかえないと思われる。しかし、最近の日本の医療界を席巻している大きな問題といえば医薬品不足であろう。筆者は、これはゆゆしき問題であると考えている。なぜなら、いくら医師のレベルが高くても、薬剤がなければ治療はできないからである。
国民皆保険と薬剤使用
日本の医療の良さは、国民皆保険制度に裏付けられるといわれる。しかし、欧州の先進国でも日本同様、国民皆保険制度が作られている国は多い。では、どこに違いがあるのであろうか? その大きな違いは、高額薬剤を保険あるいは税金により、国民の自己負担を少なくした上で、医師が処方できる環境にあるといえる。
例を挙げたい。遺伝性網膜ジストロフィー(以下、IRD)に対する初めての遺伝子治療用ベクターの「ルクスターナ®注」は1バイアル4960万円、両目に使用すると約1億円かかるというが、ピーク時に年間投与患者数5人、年間販売額5億円を予測している。日本では2023年の8月に保険収載された。
IRDは、遺伝子の変異が原因で、網膜の機能が障害される遺伝性、進行性の目の疾患の総称である。そのうちの代表的な疾患の1つである網膜色素変性症では、発症時期は様々だが一般的に10歳前後で発症し、夜盲や視野狭窄が現れ、進行とともに視力が低下する。この薬は日本では保険収載されたので、高額療養費制度により、所得によるが通常は1カ月10万円以下の費用で使用することができ、患者の費用負担は大きくないといえる。
この薬剤は希少疾患に対する薬剤であったので、医療費に対するインパクトはさほど大きくない。しかし、がんなどに対する薬剤では、使用量が多くなる可能性があり、医療費に及ぼす影響が大きい場合もある。このような場合、英国などでは費用対効果の分析を行い、薬剤使用を償還するかどうか決めるという仕組みがある。すなわち、医師にとっての武器である薬剤が、廉価に使えない場合があるのだ。
ドイツとフランスの制度
ドイツでは参照価格制度が導入されている。参照価格制度とは、医薬品を類似した薬効、有効成分や薬理機序等からグルーピングをして償還価格を決め、医師が参照価格を上回る価格の医薬品を処方した場合は、患者負担額に加えてその超過分を自己負担してもらう制度である。ドイツでは、外来や入院診療は定額負担(初診料や1日いくらなど)で、外来薬剤費用の自己負担は1割となっているが、参照価格を超えた部分を患者が自己負担することとなっている。また価格が参照価格の30%以下の医薬品の場合は、1割の患者負担金は免除となるため、医師も患者も参照価格を上回る医薬品を避けることが多い。このように値段によって処方に影響をあたえるために、薬価は製薬企業の判断による自由価格設定である。
フランスでは、患者が処方箋を薬局に持ち込み薬を受け取る際の自己負担は、薬剤の種類や対象となる疾病の重篤度によって異なる。自己負担率は、①0%(抗がん剤や抗HIV薬などの代替性のない特定の薬剤)、②35%(一般薬剤)③70%(胃薬や精神安定剤など軽症治療の薬剤)、④85%(有用度が低いとされた薬剤)、⑤100%(ビタミン剤や強壮剤など必要性が乏しいと判断された薬剤)等となっている。医薬品の価格は国が定める公定価格となっており、政府機関と製薬企業との交渉を通じて決定される。
英国では、製薬企業が一定の利益率の範囲内で自由に価格を設定でき、その金額が税金から償還される患者は低額の自己負担があるが、適用された年間の許容成長率を越えた場合は、多く得た利益をNHSに支払うこととなっている。他にも、費用対効果分析が行われ、償還される薬剤が決められることが有名である。
医薬品不足という課題
少し前にも、海外の新しい薬剤が日本で使えなくなるのではという懸念があった。こうした、海外で使われている治療薬が日本で承認されて使えるようになるまでの時間差のことを「ドラッグ・ラグ」といい、また、海外ですでに使われている治療薬が日本では開発が行われず、日本で使うことができない状況を「ドラッグ・ロス」という。
日本製薬工業協会のシンクタンクである医薬産業政策研究所が発表したレポートによると、2020年までの5年間に欧米で承認された新薬は246品目あったが、このうち約72%にあたる176品目が日本で承認されていないという。同じような話は、医療機器についても聞こえてきているのが現状である。
これは、日本の薬の値段である薬価が低いために海外の企業が日本での薬剤承認申請、及び販売を控える傾向があるせいだとされる。かつてのように日本市場が大きく、人口増加により市場が拡大するという見込みがあれば話は違ったであろうが、現時点では日本の人口は減少し、それに伴い、長期的には薬剤が使われる可能性が減ってきている。それに比べると、中国は約14億人という人口を抱え、ひとりひとりの豊かさは少ないとしても、人数が多いことによる消費は凄まじい。欧米の製薬企業の関心が、今後の消費が伸びそうな中国のような国に向くのもやむを得ないかもしれない。
このように最先端の薬が、日本で使えなくなってきているのではないかという話題は、まだ理解できる。しかしながら現在問題になっている薬剤は、そういった最先端の薬剤ではなく、日本で一般的に使われているものである。
日本製薬団体連合会の23年8月の調査によると、処方薬全体の約23%にあたる3988品目が「供給停止」や「限定出荷」となり、安定的な供給が難しい状態だという。翌月の同調査では、同年9月の時点でジェネリック医薬品の19%、数にして約1700の品目で出荷が限定され、13%にあたる約1200の品目で供給が停止されているという。さらに同年の10月に発表された日本医師会の調査では、医療現場での医薬品不足が深刻化し、医療機関の9割が「入手困難な医薬品がある」と回答している。特にせき止め薬とたん切り薬の入手が難しく、半数の医療機関が、発注しても納品されない医薬品があると回答した。
ここでのまとめ
医療費の「歯止めなき拡大」は難しい。一方で医療技術の発展は目覚ましく、そのために救われる患者も増えているが、最先端の薬剤や治療技術は往々にして高額であることが多い。さらに、肥満症治療薬「ウゴービ」の市場投入に成功したノボノルディスクの株価時価総額が欧州最大になったように、予防することにより病気を防ぐことが期待できるようになっている。このようにイノベーションによって大きな変革が起きつつある時期に薬価で的確に評価をしないと、イノベーション自体を阻害することにもなり、ひいては今回のように基本的な医薬品の安定供給を阻害することになるのではなかろうか。次回のこの連載で、この原因を供給側、需要側、政策側に分けて考察する。現在の医薬品不足がなぜ起きたかについて私見を述べ、最後に解決策を考えてみたいと思う。
参考文献—————————————————————————
KISSICK, W. L. (1994). Medicine's dilemmas: infinite needs versus finite resources. New Haven, Yale University Press
真野俊樹編著『複眼で見る医療経済とイノベーション』千倉書房 2022
https://www.kenporen.com/include/outline/pdf_kaigai_iryo/201809_no119.pdf
https://www.mhlw.go.jp/content/10800000/000358539.pdf
https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/489022.html
http://www.fpmaj.gr.jp/medical-info/results-of-survey/
https://www.oecd.org/publications/oecd-reviews-of-health-care-quality-japan-2015-9789264225817-en.htm
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