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未来の会

第88回 医師が患者になって見えた事
「完璧でない自分」を許し理想のケアを追求

第88回 医師が患者になって見えた事「完璧でない自分」を許し理想のケアを追求

公益財団法人ライフ・エクステンション研究所付属
永寿総合病院(東京都台東区)
がん診療支援・緩和ケアセンター長
廣橋 猛/㊦

橋 猛(ひろはし・たけし) 1979年東京都生まれ。2005年東海大学医学部卒。東京大学医学部附属病院、三井記念病院、亀田総合病院を経て、14年から現職。

緩和ケア医である廣橋に、2023年5月、45歳で甲状腺がんが発覚した。その経験は、その後の診療に厚みを与えるものとなった。

 SNSで闘病を発信し励みを得る

「いつか来ると思っていた」反面、実際になってみると、思いのほか、動揺している自分がいた。「いつもがん患者には適切な助言を与えていたはずだった。なのに、自分のこととなると戸惑うばかりで、励ますような言葉は出てこなかった」。

それでも医師であったことは、治療を受ける上でプラスに働いた。世の中には、有象無象、怪しいものも含め、がんに関する情報があふれている。廣橋は、迷うことなく、「がん情報サービス」に辿りついた。国立がん研究センターが運営するウェブサイトで、がんについてエビデンスに基づいた正確な情報を発信している。一般の人のみならず、医療関係者にも有用なサイトで、廣橋もむさぼるように目を通した。甲状腺がんは若年であるほど予後が良く、大半が予後の良いタイプであることには、大きく安堵した。日常から患者の紹介で関係のある日本医科大学付属病院を受診し、甲状腺がんの第一人者である杉下巌の説明に納得して、治療を委ねた。

初診から入院までの3カ月、普通に勤務していた。がんは職場の健康診断で見つかったが、廣橋の病気を知っているのは、院内でもごく限られた人間だけだった。しかし、入院で1週間も自分が抜けるとなれば、きちんと周りに告げないわけにはいかない。入院と手術の日が決まり、まず院長に伝えると、ちょっと驚いたようだったが、温かく受け入れてもらえた。部下やスタッフも、廣橋の回復を信じて、留守をあずかってくれた。

医療情報発信のために日頃からSNSを活用しており、Twitter(現・X)でも、闘病を公表することにした。がんを隠さず病と向き合いながら生活する経験が、誰かのためになるはずだという信念があった。正直に自分をさらけ出したことで、大きな反響があり、励ましを得ることができた。

患者に大変なことを強いることは性に合わず、緩和ケア医となったが、患者として受ける手術は避けて通れない。このまま、がんで命を落とすとは考えにくかった。それより、全身麻酔に伴う合併症が恐かった。目が覚めないかも、血栓ができて詰まってしまうかも、さらに最悪のケースでは声を失う可能性もないとは言い切れない。そうなれば、医師としての自分が死んでしまう……。

完全に不安を消し去ることができたわけではないが、医師仲間やTwitterを通じたメッセージで、自らを奮い立たせた。手術の朝は麻酔をかけられ、文字通り、まな板の鯉よろしく、全身を投げ出した。3時間後に目が覚めたのは、病室。両側の甲状腺を摘出したこと、悪性度は低く進行も緩やかな乳腺がんだったことを知らされた。今後、甲状腺ホルモンを補うために、チラージンを生涯服用しなくてはならない。再発の可能性もあり、「生涯付き合っていく病気ができたな」。

1週間で退院し多忙な現場に復職

手術の翌朝から歩き、内臓の手術ではないから大丈夫だろうと、楽観視していた。予定通り1週間の入院で、火曜日午前中に退院することが決まった。翌日から仕事をしてもいいかと尋ねると、杉谷は「無理はしないように」と苦笑いしつつ、請け合ってくれた。翌日どころか、退院したその足で職場に向かった。そして、翌日の外来からフル稼働だった。外科とは違い、自分は喋ることが主な仕事だ。しかし、現実には、1人の診察を終えるごとに、一息入れないとならなかった。「少し早まったな」と後悔した。

手術直後は傷跡が引きつれるように感じ、話すたびに違和感があったが、3カ月後には、発声も無理なくできるようになった。甲状腺ホルモンが安定せず、疲れやすく汗をかきやすくなった。チラージンの内服量が定まると安定し、毎月数回ある緩和ケアについての講演会など、本来の診療業務以外にも復帰した。闘病の経験を著作にまとめることもできた。『がんばらないで生きる がんになった緩和ケア医が伝える「40歳からの健康の考え方」』と『緩和ケア医師ががん患者になってわかった 「生きる」ためのがんとの付き合い方』、どちらも率直に自分の思いを綴った。

でも、まだできないことがある。カラオケだ。仕事人間で趣味らしい趣味はないが、仲間の勉強会を終えると食事をした後は、マイクを握って気分転換に発散する。十八番は、Mr. Children。普通に話す分には問題なくなったが、ロックのビートに乗せて、声を張り上げるのは、まだ怖い。それができた時が、精神的にも本当の治癒なのかもしれないと思う。

病を経て得た緩和ケア的な生き方

死を意識せざるを得ない病と診断されたことは、ショックだったが、「医師として得難い経験で、意義もあった」と心底から思える。相変わらずフル稼働しながら、がんばりすぎず、生活の質を高める生き方を心掛けるようにもなった。それを、「緩和ケア的な生き方」と捉えている。そして、自分の役割は、「この病院で、この地域で緩和ケアを広めること」と考えて走り続けてきた。その思いは今も変わらない。さらにやりたいこと、やるべきことが、広がってきた。

緩和ケアを受けたいと思いながら、きっかけがなくて踏み切れないでいる人も多い。廣橋を頼って遠方から受診する患者もいるが、それでは負担が大きすぎる。「困った時に、オンラインで専門家の意見を仰いでみる仕組み」を、同志で立ち上げたいと思っている。診療報酬の枠組みでなく、医療以外のコンサルテーションになるかもしれない。「自分ががんになった時も、信頼の置ける医師から助言をもらったことが、安心して治療を受けることにつながった」。

30代で親友が亡くなった時に、「Bucket List(死ぬまでにしたいことのリスト)」を考えたが、その時は、まだ現実的ではなかった。今回は具体的に書き出してみた。海外を放浪した中でもまだ行けていない国、ラオスを訪れること。妻とフランス料理のフルコースを楽しむこと。そして、緩和ケアを、どこでも当たり前に受けられるようにすること……。「自分の死を意識する経験や、ある年齢などをきっかけにして、リストを作ってみてはどうか」と勧めるようにもなった。

「キャンサーギフト」という言葉は好きではない。がんにならない方がよいに決まっているからだ。それでも、自分にとっては、闘病で得た物は大きかったと言い切れる。当たり前の時間をかけがえのないものと大切に過ごすようになり、リストを作るなど、漠然と思い描いていたことを率先して行動に移すようになった。何より大きいのが、「完璧な自分を諦め、自分を許せるようになった」ことだ。「それまでは、死は日常だと割り切りながらも、いつも糸が張りつめていた」。

緩和ケアセンターのすべての患者の看取りに立ち会っていたが、今では受け持ち患者だけにして、他の医師たちに任せるようになった。「人生の最期にごく短期間だけ関わるのではなく、できるだけ早くから伴走し、より良く“生きる”ことを支え続ける」——理想の緩和ケアを広めるための旅は続く。(敬称略)

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