「説明と同意」から真のICへ
「インフォームド・コンセント(IC)」と「説明と同意」は、似て非なるものである。まず、筆者が昔、厚生労働省主催の医師行政処分後の再教育研修で、繰り返し、コンプライアンス担当の講師として冗談めかして講演していたギャグを、最初に披露したい(繰り返すが、ギャグであるので、念のため)。
「説明と同意」は「インフォームド・コンセント」の和訳である。しかし、このように訳した人は、相当に英語ができないらしい。「インフォーム」を「説明」と訳し、「コンセント」を「同意」と訳し、その間の「ド」を「と」と濁音を取って訳した。そこで、「インフォームドコンセント」が「説明と同意」(インフォームとコンセント)に変身したのである。
もちろん、「医師からの情報提供に基づく患者の自己決定」が「医師の説明と患者の同意」であろうはずがない。前者の主体は患者1人だけであるのにもかかわらず、後者の主体は医師と患者の2人だからである。しかし、ここでもう一度振り返ってみると、「説明と同意」は必ずしも悪い和訳ではなく、超然とした意訳、もしかすると名訳かもしれない。上田敏の『海潮音』みたいなものであろうか。なぜならば、それまでの医療の実際をよく表現しているとも言えるからである。
問診や検査などをした上で、専門家である医師が診断し、事実上、治療方法を想定して、その想定された治療方法を「説明」し、「そして、」患者の「同意」を得る、というプロセスは概ね医療の実際である。時に、患者が「同意」を渋ったら、患者に「納得」してもらうまで「説得」するのである。
実は、ほとんどの症例は、この要領で問題はないと言ってよいであろう。ただ、時にこのままでは「パターナリズム」だと非難されることがある。そうすると、実務的に適切なICの要領は何なのであろうか。
情報提供の幅はどの程度か
医療者はもともと忙しくて時間もない。働き方改革もあるので、非効率なことはできる限り省きたいところでもある。とは言え「説明義務違反」として訴訟されたり、クレームをつけられたりしても、かなわない。そうすると、適切なインフォームドコンセントと言っても、実務的な要領こそが大切となろう。
そもそもインフォームドコンセントは、憲法第13条の幸福追求権に由来する「患者の自己決定権」がその法的根拠である。最高裁判所も、2001(平成13)年11月27日付けの「乳房温存療法」の判決において、「患者自身の生き方や人生の根幹に関係する生活の質にかかわるものであるから」「乳房温存療法について説明すべき要請は…(中略)…他の一般の手術を行う場合に比し…(中略)…一層強まる」と判示した。また、06(平成18)年10月27日付けの「未破裂脳動脈瘤」の判決でも同様に、開頭手術・コイル塞栓術・保存的治療という3つの選択肢について、「医師が患者に予防的な療法(術式)を実施するに当たって、医療水準として確立した療法(術式)を受けるという選択肢と共に、いずれの療法(術式)も受けずに保存的に経過を見るという選択肢も存在し、そのいずれを選択するかは、患者自身の生き方や生活の質にもかかわるものでもあるし、上記選択をするための時間的な余裕もあることから、患者がいずれの選択肢を選択するかにつき熟慮の上判断することができるように、医師は各療法(術式)の違いや経過観察も含めた各選択肢の利害得失について分かりやすく説明することが求められるというべきである。」と判示している。つまり、「患者の自己決定」に資するものであるから、その決定のために必要な「分岐点」を説明して情報提供せよ、というものなのだと言えよう。本当の意味で「何が最善」なのかを示せというのではない。患者本人に「選ばせろ」というに過ぎないのである。そうすると、患者が選ぶのに足りるだけの程度の「選択肢」と「それぞれのメリット・デメリットあるいはリスクの大小など」を示せば足りるということになろう。逆に、医療者が「最善」と思う方向に余り誘導するな、ということにもなる。したがって、これが「情報提供の幅」であると言えよう。
必要性・適応性・危険性などの考量
繰り返すが、情報提供が一面的で患者の選択肢もないようであると、パターナリズムだと非難され、説明義務違反となる。そうすると、どの程度の幅で情報提供されるべきかが問題となっていく。一般的に言うと、患者にとって意味のある選択肢かどうかが、その幅の広狭に反映されることとなる。ただ、高度医療の領域では、そもそも病状と治療の専門性・技術性が高いので、その幅はそう広くはならないであろう。
ただ、東京地裁04(平成16年)年1月26日判決では、甲状腺がん治療のために腫瘍摘出手術を行うに当たり、担当医師が当該手術の必要性と危険性について説明すべき義務を怠ったとして不法行為責任が認められ、慰謝料150万円が認容された裁判例がある。一般的に、手術の必要性(適応性)が低く、危険性が高いほど、より一層、説明が求められよう。
ただし、本件手術前に本件頸動脈損傷の発生機序を予測して、その具体的な危険性について説明することは不可能であったとして、判決では説明の内容は限定された。また、訴訟では、本件手術中、医師が癒着を確認した時点で、そのまま手術を中止して危険性について説明すべきとも主張されたが、判決ではその患者側の主張は排斥された。
つまり、患者の自己決定(選択)に必要と言えるかどうかで判断されるのである。普通は、患者がその価値観・心情も含めて「納得」しているのかどうかが、その「分岐点」になるであろう。医師は、専門的な知見・知識だけではなく、患者のその時々の価値観や心情に着目しなければならないし、逆に言えば、その点を抑えれば足りるのである。
法律家の立場からのアドバイス
ところで、医師達には、本来的に、他に専門技術的なやるべきことが多い。そのような中、いたずらに情報提供の範囲を広めることは、医師らにとっては当然のこととして、患者にも意味が乏しく、むしろ不利益なことが少なくないのではないか。往々にして、高度に精密に知識や知見や判断を細かく細かく説明し、それを文書化して患者のサインをもらおうとする傾向すら見られる。それは訴訟にとって意味がないことも多く、逆に、医師の裁量の幅を自ら狭くして、自ら窮屈にしていることも多い。したがって、今後のあるべき姿としては、訴訟で敗訴したり訴訟を誘発したりしない限度で、説明の範囲を適切に絞り込んで行くように努めるべきことであろう。
たとえば、産婦がその新生児に対する抗生物質投与を拒否した時の(海外での)実例を紹介したい。
旧来の「説明と同意」であれば、患者が同意するまで細かく説明し「説得」することになる。しかし、この実例では、助産師が「約4時間おきに新生児の体温と心拍数を測定し、異常があった場合に新生児に抗生物質を投与する」という、いわば条件付きの選択肢が提示された。産婦はこの選択肢を選んだ。
その後に測定した体温と心拍数が高かったため、新生児科医は血液検査を勧めたが、産婦は2人の子を産み育てた経験から「授乳直後で体温が高くなっていただけで問題ない。」と答えた。助産師が「今から4時間待つのは心配だから、2時間後に体温と心拍数の測定をさせてもらえないか。」と選択肢を提示したところ、産婦は承諾した。2時間後に測定した結果、体温と心拍数が高かったので、血液検査をしたところ抗生物質を投与した方がよいという結果が出て、抗生物質を投与することになった。産婦は納得し、クレームはなかった、という実例があった。
提示された2つの選択肢は、「抗生物質反対」という産婦の価値観と、「これまでの妊娠出産や子育てで子どもが異常な事態に陥った経験がないから、今度も大丈夫だろう。」という産婦の心情に着目したものと言えよう。強い信条を持ち、異常の経験が無い患者に、危険性や必要性を力ずくで説くよりも、患者の価値観と心情に基づいた選択肢を提示する、これが実務的に適切なインフォームドコンセントの要領の1つである。
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