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第86回 医師が患者になって見えた事 血管外科医が心筋梗塞から後遺症なく回復

第86回 医師が患者になって見えた事 血管外科医が心筋梗塞から後遺症なく回復

医療法人社団亀戸畠山クリニック(東京都江東区)
院長
畠山 卓弥/㊦

畠山 卓弥(はたけやま・たくや)1957年宮城県生まれ。84年東京大学医学部卒業、同第一外科入局。日立総合病院、三楽病院、清湘会記念病院などを経て、2017年から現職。

医師は自分が専門とする病気に罹る——冗談めかした迷信がある。血管外科を専門とするベテラン医師が、64歳にして突然見舞われたのは、血管にまつわる致命的な疾患だった。

“医者の不養生”が招いた大事

2021年1月、日曜の早朝に寝込みを襲ったみぞおちの痛みが、いつものように薬で収まる胃痛でないことは明白だった。

千葉県成田市のゴルフ場に仲間を送った後、自分はプレーをせず、そのまま帰途についた。普段なら1時間の道程を、サービスエリアで休み休みしながら車を駆って、日曜で誰もいない自身のクリニックにたどり着いた。

30歳から健康診断ではコレステロール値が高く、家族性高コレステロール血症(FH)と診断された。40歳を過ぎてからはスタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)を服用中。ゴルフ仲間である江東病院の医師からは、冠動脈のCT検査受診を勧められていた。20年の春に受診すると、血管の石灰化が進行していた。血管外科医として、血管の老化は狭心症のリスクになることは熟知していたが、それを無視した形で1年が経っていた。

「痛みの原因は、冠動脈が詰まっているせいかもしれない」。一瞬頭をかすめながら片隅に追いやった疑念が、どんどん意識の中央にのぼってきた。畠山は、抗凝固剤であるヘパリンを自ら点滴することにした。それだけでは不十分に思え、薬物の手引きを操った末、バイアスピリンを噛み砕き、5錠ほど立て続けに飲んだ。脳動脈瘤があり、血栓予防で常用している薬だ。

自己診断が当たらないでくれと念じつつ、普段は患者が使うベッドに、しばらく横たわっていると、痛みが薄らいだ。救急車を呼ぶまでもなく、最大の危険は回避できたようだ。そのままゆっくり起き上がり、30分ほど運転して、都内の自宅に戻った。

言葉少なに夕食を取り、早めに床に就いた。その晩は痛みで起きることもなく、疲労もあってか熟睡した。翌月曜の朝はいつも通りに目覚め、クリニックまで電車で通勤した。変わりのない朝の光景だ。患者が来る前に心電図を取ってもらったが、目立った異常は見つからず、そのまま診療に入った。念のために採血し、夕方、検査会社に送った。

検査結果は2日後、水曜に判明した。トロポニンTが異常な高値を示していた。心筋細胞が障害されている兆候だ。既に痛みは消えていたが、診療を終えた夕方、江東病院に連絡を入れ、タクシーで向かった。時間外だったが、待ち受けていた循環器内科医がテキパキと診療を進め、カテーテル検査をすると、左冠動脈の近位部(7番)が閉塞寸前だという。心筋梗塞だ。あれよあれよと、そのままカテーテルを介した経皮的冠動脈形成術(PTCA)でステントを留置する治療が行われた。もちろん、即入院となった。

ヘパリンやバイアスピリンなど、発症当日の自己治療が奏功したものか、一命を取り留めたことに大きく安堵した。循環器内科医と血管外科医、互いに血管診療のエキスパートで、細かい言葉を要することもなく、淡々と治療が進められた。

実は冠動脈のCT造影後、再三カテーテル検査を進められていたが、休みが取れないと1年間放置してしまった。それを後悔する気持ちに苛まれ、「医者の不養生だな」と苦笑いした。

FHという大きなリスクを抱えながら、コレステロール低下薬を飲んでいるから、運動もしているから、自分だけは……という思いがあった。17年11月にクリニックを開院してから、病院勤務時代に比べ、格段に歩いたり階段を昇り降りしたりする機会が減った。それでも、通勤時は1駅か2駅手前で降りて歩き、趣味のゴルフでは平日は練習場、週末はコースに出て汗を流した。まさか大事には至るまいと、高をくくっていた。

水曜の夜に入院が決まったものの、木曜、金曜は予約外来が立て込んでいた。親しい血管外科専門医に電話したところ、2日間代診を引き受けてくれるという。スタッフにも事情を連絡し、休診せず、その体制で凌ぐことにした。命に別条はなく、わずか3日間の入院で、土曜から仕事に復帰した。

数日で復帰し次の目標を考える契機に

還暦を機に「10年は続けたい」と開院したクリニックも、66歳を迎え折り返しに差し掛かった。人生を振り返り、自分の引き際を考えるようになった。石巻に暮らしていた両親は、東日本大震災(11年)を経験することなく他界した。自分もこの先、何が待ち受けているか分からない。

両親にとって畠山は自慢の一人息子で、郷里で開業することを待望されていた。自宅を建て替えた際は孫の部屋まで用意してくれていたが、期待を裏切る形になった。その実家は津波で流された。

畠山は、自分の息子たちには好きな道を歩んで欲しいと願ってきた。長男は医学部を出て、大学病院で呼吸器外科医をしている。自分と同じ外科を選んでくれたことはうれしい。男同士、会話は最小限だが、畠山の入院中は着替えを届けてくれた。クリニックで手術を手伝ってくれることもある。次男はパイロットを目指している。

心筋梗塞は致命傷となりかねない病だが、後遺症もなく回復し、週末のゴルフも再開した。体力の衰えはあるが、むしろ年齢的なものだろう。「自分の病は反面教師で、失敗から学んだことは多い」。

遺伝的素因であるリスクには、より真剣に向き合うようになった。1年後のカテーテル検査では問題なし、その後は血液検査を続けている。

厳格にコレステロール値を管理するには、血液浄化療法(LDLアフェレーシス)を受けるしかないと言われていたが、16年4月にLDLコレステロール低下の皮下注製剤が承認され、それを毎月、自己注射するようになった。大腸ポリープの素因もあるため、同級生のいる近くの病院で年1回内視鏡検査を受けているが、2回に増やそうと考えている。

自らの経験を後進のためにも形に

クリニックは、透析シャント(血管外科)と消化器内視鏡検査をメインに、内科診療もしていた。しかし、新型コロナ感染症の流行以降は内視鏡検査は行っておらず、内科の看板も23年9月で下ろした。透析シャント管理の患者は、近隣の施設からの紹介で、日々20人近くを診る。かつては夕方や休日など時間外の診療にも対応していたが、心筋梗塞を患った後、他の血管外科医にも応援を仰ぐようになった。

自分のFHも腎不全も、慢性疾患で共通点がある。自分から闘病体験を話すことはないが、患者には少し強い口調で、心筋梗塞などのリスクを強調するようになった。薬の副作用なども、実感を持って伝えられるようになった。

クリニックでシャント管理を続けるには、安心して委ねられる医師に引き継いでもらわなくてはならない。自身の診療を減らせるようになったら、論文や本を書きたい。「次の世代に経験を伝えるため、後進のためにも形を残したい」。(敬称略)

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