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未来の会

私の海外留学見聞録 ㉔ 〜英国留学の思い出と今〜

私の海外留学見聞録 ㉔ 〜英国留学の思い出と今〜

笠原 群生(かさはら・むれお)
国立研究開発法人国立成育医療研究センター 病院
留学先: 英King’s College Hospital(2002年4月〜03年3月)

King’s College Hospitalで学んだ1年間

1992年に群馬大学を卒業し、一般外科研修を終え消化器外科医になる決心をした96年に、当時生体肝移植で世界をリードしていた田中紘一教授が率いる京都大学移植外科に国内留学する機会を得ました。6年間、厳しくも楽しい臨床経験をみっちり積んだのち、2002年から約1年2カ月と短い期間でしたが、脳死臓器移植の手技を学ぶため英国King’s College Hospital(KCH)のLiver transplant surgical serviceに留学することになりました。

KCHは、ロンドン中心部からテムズ川を挟んだ南のDenmark Hillにあります。精神神経科、肝臓病科、胎児診療、歯科などの専門施設が併設されており、世界中から多くの医師や基礎研究者を受け入れていました。Liver transplant surgical serviceは、1989年に移植施設として英国NHSに認められ肝臓移植プログラムを開始しました。私がロンドンに到着した2002年に累積肝臓移植症例が2000例を超え、その記念式典が行われました。式典で販売していたKCHのロゴ入りの黒いトレーナーとKCH職員証は、今でも私の宝物です。また当時はQueen’s Golden Jubileeで、英国中がお祭りムードでした。KCHの産科病棟はこの時にできたものです。

異国での手術に奮闘する日々

日本は生体移植が主流ですが、英国は脳死者からの臓器提供が移植医療の主体です。英国は脳死移植の臓器分配の均等性を保ち、施設毎の負担を軽減するため、今でも脳死肝移植施設を7施設だけにしています。KCHの肝臓移植症例数は、英国内はもちろんのこと欧州で最も多く、年間約200症例実施していました。主任教授は、ナイジェル・ヒートン先生でした。白髪の英国紳士で、ハンサムで格好もよく、手術も大変上手で、お会いした瞬間に憧れを抱くような先生でした。他に2名の教授がおり、インド出身のモハメッド・レラ先生とイタリア出身のパオロ・ムエザン先生が、私たち若手移植外科フェローの指導医でした。英国人外科医はなかなか緊急手術ばかりの移植外科には入職してこないため、フェローである私とフランス人のジーナ、ウクライナ人のブラッド、イタリア人のラフィーの4人で夜のオンコール体制を組み、24時間体制で脳死臓器摘出を担当しました。最初はラフィーの見習いで何度か臓器摘出に行かせてもらい、その後は同僚・臓器灌流専門の臨床工学技士さん・看護師さんで、英国中を救急車やセスナ機で昼夜問わず飛び回ったことは、とてもいい思い出です。若手は夜中に臓器摘出手術をした後も、病院に戻ってきてからレシピエントさんの移植手術の準備をし、摘出した臓器を縫いやすいようにバックテーブルで処置をしないとなりません。またその処置が終わったら、レシピエントさんの手術に入らなければならないので、結局24時間以上の連続勤務は当たり前でした。同僚のジーナとブラッドとは、当番明けの夕方に病院の上にあるFox hillというパブで、頻回に憂さ晴らしをしました。

▲2002年英国留学時。左からモハメッド・レラ教授、筆者、ナイジェル・ヒートン教授、パオロ・ムエザン教授
▲上の写真の20年後の22年。同年ムエザン教授はお亡くなりになりました。謹んでご冥福をお祈りいたします

誰もが経験することかもしれませんが、英国留学に行って一番適応するのが難しかったことは、自分の居場所を作ることでした。日本でそれなりに一生懸命働き、周囲の信頼も得られていたつもりだったので、職場の人やシステムに慣れるまでは本当に苦労しました。同じ留学生のジーナ、ブラッド、ラフィーには、この意味でも本当に助けてもらいました。半年も経つと大分仕事に慣れてきて、徐々に移植手術を執刀する機会をいただきました。手術の執刀は、私の居場所確保と心の安寧に大いに役立ちました。ロンドンでの生活は決して財的に豊かではありませんでしたが、日本を外から見ることができ、医師として自分をリセットすることができたので、とても充実した時間でした。

帰国後も続く仲間や恩師との交流

留学中は本場のミュージカルも沢山見ることができました。特に「Bombay Dreams」「Mamma Mia!」「We Will Rock You」が好きで、時間があるときは妻と一緒に繰り返し観劇に行きました。約1年間の留学はあっという間に過ぎ、英語はなかなか上手くなりませんでしたが、脳死肝移植の手術技術を身につけるという目標は達成でき、その後の日本の脳死肝移植・分割肝移植の推進に、少し貢献することができたと思います。

私が留学した後も、多くの日本人肝胆膵外科医がKCHに臨床留学しています。出身大学もバラバラな仲間たちですが、勝手にKing’s留学組と名前をつけて、外科系学会のたびに一緒に食事をして思い出話をしています。ナイジェル先生は学生時代にラグビー部で、ラグビー観戦されるのもお好きだったので、僕らKing’s組で費用を出し合って、ナイジェル先生と、日本人留学生の母と慕われていた看護師の清美さんを、19年11月2日に横浜国際競技場で行われたラグビーワールドカップ決勝戦にご招待しました。横浜で行われた決勝は偶然にも英国対南アフリカで、英国人のナイジェル先生にとっては最高のシチュエーションでしたが、残念ながら敗退してしまいました。ラグビー観戦も楽しかったですが、それ以上に私が嬉しかったのは、ナイジェル先生とKing’s留学組の家族が一堂に会した食事会でした。多忙な留学時代に、苦労をかけてしまった家族、当時は幼かった子供たちとナイジェル先生が楽しく話す機会を作ることができたのは、かけがえのない時間だったと思っています。

英国での留学経験から得たもの

22年にはQueen’s Platinum Jubileeが祝われました。すでに留学してから20年以上経過しましたが、国際学会があるたびに当時King’sで一緒に働いていた旧友と親交を深めています。日本にいるだけではわからない肝移植医療の進歩・新たな知見を肌で感じることができ、友人から世界最先端の情報を得ることができることは、海外留学して本当によかった事の1つだと思います。

05年から国立成育医療研究センターに赴任し、こちらも19年経ってしまいましたが、憧れたKCHのように国際的な小児臓器移植施設として広く認知されるようになりました。今では海外からの留学生を多数受け入れる立場となりました。私が留学当初に感じた「居場所のなさ」「人から必要とされない恐怖」を留学生が感じないように、日々声を掛け、東京ドームジャイアンツ戦に招待したり、近所の焼き肉屋で食事に誘ったりと努力しています。私の英国留学のように、日本滞在が彼・彼女らの未来の糧になるよう、これからも謙虚に移植医療・人材育成に邁進してゆきたいと思います。

▲2019年ラグビーワールドカップ決勝戦。ナイジェル・ヒートン教授、清美さんとKing‘s組(左から東邦大学 浅井浩司先生、日本医科大学 川野陽一先生、東邦大学 松清大先生、筆者)

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