吉野 秀朗(よしの・ひであき)
医療法人財団 慈生会 野村病院 病院長
留学先: 米Geisinger Medical Center, Geisinger Clinic-Weis Center for Research(1987年8月〜89年7月)
留学までの長い戦い
1987年8月から2年間、米国ペンシルベニア州にあるGeisinger Medical Center附属の心臓研究センター、Geisinger Clinic-Weis Center for Researchに留学しました。
留学は高校生の頃からの夢でした。私が入局した慶應義塾大学の循環器内科学教室では、留学が当たり前という風潮が有り、当時の助教授から「留学したければ、あちこちに手紙を出して、自分で留学先を探しなさい」と言われました。この時私は、先輩とチームを組んで4年間に亘る中型犬を使った心筋虚血の実験を行っていました。次は小型動物を用いて自分1人で心筋虚血急性期の心筋代謝の実験をしたいと助教授に相談したところ、名前が上がったのがNeely教授です。世界トップレベルのNeely教授の所へ留学したいというのが一番の希望でした。
しかし、なかなか返信がなく、ワシントンで行われた米国心臓協会(AHA)で発表した後、思い切ってPennsylvania State University(通称Penn State)のNeely教授を訪ねました。ハリスバーグ国際空港に降り立つと、驚いた事にNeely教授が自ら車を運転して空港まで迎えに来てくれていたのです。研究室を案内して貰った後、AHAで発表した研究をプレゼンしなさいと言われ、これは試験だと思い緊張しました。プレゼンを終えると、この研究は何の役に立つのかと質問され、しどろもどろになったのを覚えています。最後に留学を受け入れて貰えるかを尋ねると、快く了承してくれました。
年俸は1万8000ドルと決まり、後は出発を待つばかり。研究に区切りが付き学位論文を提出する頃、足利赤十字病院への出向の辞令が下りました。そこに籍を置いて留学すれば良いと言われて出向しましたが、1年が経って留学させて欲しいと教室の主任教授に申し出ると、学位審査迄1年待つようにと言い渡されました(主任教授には、以前に学位論文を紛失した事があるという怖い噂が有りました)。循環器内科の助教授と主任教授の間で、私の留学について話が付いていなかったのです。Neely教授から留学の承諾を貰ってから既に3年近くが経過していました。この時、私の年齢は35歳。このままでは何時になっても留学出来ないと思った私は、「学位は結構です」と言い、3カ月前に提出してから一度も開封されていない論文を返して貰って留学する事を決めました。
留学までの約1年3カ月は、足利赤十字病院の循環器部長にお世話になりました。「何の為に留学するのだ。新しい技術(当時始まった冠動脈形成術や心臓カテーテル)でも何でも教えてやれるのに」と、循環器内科副部長のポジションまで戴きましたが、留学への思いは消える事がなく、かといって生涯研究者として歩むつもりもありませんでした。臨床医だからこそ、基礎にある病態生理やメカニズムを学びたいと思ったのです。
家族との海外生活の苦労と醍醐味
当初はPenn Stateの生理学教室に留学する予定でしたが、Neely教授から「新しく出来る研究所でも良いか」と尋ねられました。留学の夢が叶うのであれば何処でも良い。「勿論行きます」と返事をしました。その研究所は、ハリスバーグ国際空港から約80マイル北に位置する人口6000人ほどの小さなダンビルという町に在りました。到着すると『大草原の小さな家』を思わせる広大な土地に巨大な病院が建っており、その直ぐ脇の、一部建築中の真新しい建物が研究所でした。
妻と幼い娘2人との家族4人の海外生活が始まりました。住居は4戸がくっ付いた長屋の様な家。先ず初めに考えなければならなかった事は、車の購入と免許の取得、保険、子供の学校等、生活や家族に関わる事でした。長女は年齢的に小学校に入る事も出来ましたが、英語が全く話せなかったので幼稚園に通う事になりました。娘達には、皮膚や髪の色が違っても誰とでも心を通わせられる人間になって欲しいと願っていました。入園して3カ月後に見学に行くと、長女は言葉が未だ不完全ながらも友達と生き生きと遊んでいて、涙が出る思いでした。3歳だった次女は保育園に通い、英語を喋り始めたばかりの現地の子供達と一緒に過ごしました。6カ月が過ぎると娘達は自然と英語で会話をする様になりました。週末は近くの牧場で乗馬を楽しんだり、時々家族で長距離の旅行にも出掛けたりしました。
長男が生まれたのも、留学中の印象的な出来事です。当時の米国の周産期死亡率は日本の2倍と言われていました。同じ研究所に勤務していた同僚の奥さんが、妊娠中毒症になり脳出血で亡くなりました。長男の生後2週間の検診では、黄疸が酷いから直ぐに入院する様にと医師から告げられましたが、2人の育児を経験して来た私達は、母乳も沢山飲んでいるし問題無いと医師の診断を否定しました。結果は、黄色人種を診た事がなかった小児科医が黄疸と思い込んだものでした。
留学して1年が経過した頃、州から税金を支払うよう通知が届きました。2年間の留学中は税金が免除される筈でした。そこで、施設との交渉の末、給料に税金分を上乗せして支払って貰いました。米国では意見を述べなければ納得したものとして扱われます。妥協をせずに、意思表示する事が大切だと学びました。
念願の実験に勤しむも、教授との突然の別れ
肝心の研究はどうだったのかと言うと、希望していたラットを用いた動物実験に明け暮れる日々でした。朝は6時に出勤し、夕方5時過ぎには帰宅。5時になると、警備員が回って来て電気を消して行くのです。HarvardやStanfordでは研究室の明かりは消える事がないと聞きますが、それに比べるとのんびりしているのでしょう。土日は完全に休みでした。毎週月曜日の午前中に行われるリサーチミーティングで前週の研究成果と今後の課題を発表し、米国の循環器の現状を学ぶ為、循環器内科のカンファレンスにも参加しました。
最初の1年間は、実験系の確立と測定技術の習熟に集中し、繰り返し計測で安定した測定結果が得られる様になって初めて研究の許しを貰い、一から実験を立ち上げる事が出来るまでになりました。こうして実験を開始した矢先、Neely教授が心筋梗塞で入院。入院中に再発して53歳の若さで他界しました。渡米して1年3カ月目の出来事でした。
Neely教授の研究室は閉鎖される事が決定し、研究員はセンター内の他の研究室に配属されたり、別の研究所に移ったりする準備を始めました。私もセンター長のMorgan先生から、行き先を探しなさいと言われました。しかし、留学期間が半分以上過ぎ、別の研究所で新たに研究を始めるのは難しいと考えて、Morgan先生の指揮下で研究を継続させて貰いました。結局は大した論文も書けず、2年間の留学を終えて帰国しました。
帰国後に博士の学位を取得
ハプニングの連続だった留学ですが、何もないところから家族と共に1つ1つ積み上げて行く事は楽しくもありました。留学中のNeely教授の教えは私の生涯の宝物となり、多くの日本人留学生に出会い、友人が出来た事も大きな収穫の1つでした。
帰国後、留学中に行った研究で博士号の学位を杏林大学で取得しました。あの時、主任教授に逆らって無鉄砲に飛び出した私の決断は正しかったのか?それは今でも分かりません。しかし、全く後悔していませんし、行って良かったと今でも思っています。もう一度留学したいかと問われれば、ぜひ行ってみたい、人に勧めるかと問われれば、留学したいならぜひ行くべきと答えるでしょう。未知の世界での未知の人との出会いは、生涯かけがえのない財産になる筈です。
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