1・2号被保険者との公平性をどう担保するか
厚生年金の「年収の壁」解消に向け、厚生労働省は社会保障審議会年金部会(厚労相の諮問機関)の議論をスタートさせた。保険料負担を免れる為、働く時間を調整して年収を106万円以下等に抑える人を無くして行こうという訳だ。
ところが、首相官邸の指示に沿って同省が示した案には各委員から「公平性に欠く」といった強い批判が続出し、部会は紛糾したまま終わった。
「不公平感が非常に強い」「更に制度が複雑になる」「労使折半の原則を疎かにすべきではない」
9月21日の同年金部会。厚労省が「年収106万円の壁」の解決策として、①一定の年収になるまで本人の保険料を免除、②本人の保険料率を下げ、事業主の料率を上げる、③労使双方とも料率を下げる——等、複数案を提示した所、出席した委員からは異論が相次ぎ、意見集約は出来なかった。
現行制度では、配偶者の扶養を受ける「第3号被保険者」は保険料を払わずとも老後に基礎年金を受け取れる。一方、従業員101人以上の事業所で週に20時間以上働く場合は、月の所定賃金が8・8万円(年換算で106万円)を超すと扶養から外れ、保険料(年収の18・3%、労使折半)の支払い義務が生じる。又、100人以下の事業所で働く人は年収130万円超で扶養を外れる。
従業員101人以上の事業所の場合、手取りの減少を防ぐには年収125万円程度になる迄労働時間を延ばさねばならない。
これを避けるべく年収が106万円を超えない様にして働く人は多く、これが「年収の壁」と指摘されている。厚労省によると、約763万人いる「3号」の内、年収の壁を意識して労働時間を調整している人は最大で60万人程度。ここ数年は最低賃金アップの影響で、年収が「壁」に達して仕事を減らす人が増えており、この事が深刻な人手不足を招いている。とりわけ、飲食や流通等パートを多く雇う業界には死活問題となっている。
50万円給付策や減免案は被扶養者優遇に過ぎない
こうした経済界からの悲鳴に反応したのが岸田文雄・首相だった。「女性の就労の壁になっている制度を見直す」と意気込み、厚労省に2025年の次期年金制度改革で「年収の壁」問題を解消する様迫ると共に、それ迄の間は暫定策を実施する考えを明らかにしていた。
そして9月25日には首相自ら「年収の壁・支援強化パッケージ」を公表。手取りが減らないよう賃上げ等をした事業所に従業員1人当たり最大50万円を助成する制度を10月からスタート(25年度迄)させる事を明らかにした。
又、事業所が従業員に「社会保険適用促進手当」を支給出来る様にする事も表明した。期間は最長2年間だ。更に「年収130万円の壁」対策として、一時的に年収が130万円を超えても2年連続迄は扶養に止まれる様にする。年収が保険料を払わねばならなくなる水準に達しても手取りが大きく減らない様にする施策だ。
尤も、これらの「年収の壁・パッケージ」はあくまでも次期年金制度改革迄の繋ぎに過ぎない。これとは別に、官邸の指示によって厚労省がスタートさせたのが、9月21日の社会保障審議会年金部会での議論だった。
ただ、自営業者ら国民年金加入者(第1号被保険者)は定額(23年度は月額1万6520円)で、一般の会社員や公務員(第2号被保険者)は年収に応じて、それぞれ保険料を払っている。労働時間が短くとも、扶養されていない独身の人には「年収の壁」が存在しない。
つまり、厚労省が示した案も、首相の「パッケージ」も、手取りが減らないよう労働時間を抑えて来た被扶養者だけを優遇する施策だ。だからこそ、年金部会では「不公平」との強い批判を浴びた。厚労省内にも「全うな案ではない」(年金局を経験した幹部)といった思いを持つ人は少なくない。
官邸の指示は次々打ち出す内閣支持率アップを狙った策が的を外し、政権維持に危機感を持った岸田首相の焦りの反映でもある。
そもそも、厚労省年金局は年金制度の構築に際し、公平性を重んじて来た。その理念に基づいた政府の大方針、「厚生年金の適用拡大」は、労働時間が短く年収が低い人にも労使折半で保険料を求める代わり、加入者の老後の年金は手厚くする事が狙いだ。更に岸田政権は将来的にフリーランスやギグ・ワーカー等にも社会保険を適用して行く「勤労者皆保険」の実現を掲げている。
それなのに今回の案は何れも厚生年金の適用拡大方針を歪めて公平性をねじ曲げ、負担増を嫌う企業や有権者のご機嫌を窺う選挙目当ての一時凌ぎ策となっている。当の年金局は批判を見越し、社会保障審議会年金部会に案を示した際には「改正案ではなく、例示」と逃げを打った。
賃上げで浮き上がる月額8・8万円基準の歪み
ある関係者は「官邸から押し付けられ、難渋した末の案だ。批判に晒されるのを前提に、如何に不公平な案であるかを官邸や負担の軽減ばかり求める政治家に分かって貰おうという思惑だろう」と語る。
厚労省の「例示」が負担軽減に繋がる案ばかりである事には、年金関係の専門家からも疑念が示されている。現行の「週20時間以上働き、且つ月額賃金8・8万円超」という厚生年金の適用基準に当て嵌まっても負担増をなるべく避ける案に終始している、という訳だ。21日の年金部会で大和総研の是枝俊悟・主任研究員は「週20時間未満の労働者に社会保険適用を進めるべきだ」と述べ、一部委員の賛同も得た。
但し、厚生年金の適用を労働時間が週20時間未満の人や月額賃金8・8万円未満の人にも進めて行く場合、パートを多く雇う企業の保険料負担が膨らむのに加え、新たに適用される人の厚生年金保険料が国民年金の保険料より低くなってしまうという課題が横たわっている。
仮に月の賃金が5万円の人にも厚生年金を適用するなら、保険料率は収入の18・3%なので、本人負担分は4575円。これで老後は定額の基礎年金と報酬比例年金を受け取る事が出来る。一方、自営業者ら第1号被保険者は月1万6520円の保険料で基礎年金しか無い。
それを避ける為、国民年金も報酬比例部分が有る厚生年金に一元化するなら、今度は保険料に事業主負担の無い自営業の人や無職の人達の負担が倍になる。これらの不公平さがネックとなり、収入が低い人にも厚生年金を適用して行く案は頓挫して来た。
そうした中、9月に入り、是枝主任研究員は賃金が月8・8万円に満たない人にも厚生年金を適用しつつ、国民年金保険料との差額を雇用者に負担して貰う案等を公表した。又、厚労省年金局長の経歴を持つ日本総研の高橋俊之・特任研究員は、賃金が低く厚生年金と国民年金保険料双方の負担が生じる人に厚生年金保険料の中から基礎年金に充てられる分を還付する、との案を発表している。どちらも国民年金加入者との不公平感を和らげる事に結び付く。
今年、最低賃金は初めて1000円(時給、全国平均)を超えた。これを受け、岸田首相は8月31日の「新しい資本主義実現会議」で「更に着実に賃上げを行って行く必要がある。積み上げにより、2030年代半ば迄に全国加重平均が1500円となる事を目指す」と踏み込んだ。
仮に時給1500円なら週に約15時間働くだけで、月額賃金が8・8万円に到達する。そうなれば「週20時間以上働き、且つ月額賃金8・8万円超」という厚生年金の適用基準と整合を取り難くなって来る。厚労省内には「原点に立ち返り、労働時間や賃金に関わらず雇われて働く人には全て厚生年金を適用して行くべきだ」との指摘も出ている。
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