医師のコミュニケーション能力が、患者の健康状態どころか人生を左右する場合さえある。そんな経験をしたので書いてみたい。少し前の話だが、デリケートな内容なので固有名詞などは伏せて記す。
都会には医療機関がひしめき、患者の確保に苦労しているところもあると聴く。経営者にとっては頭の痛い話かもしれないが、患者の側からすると、選択の自由があるということだから悪い話ではない。
ところが、私がいま働く北海道には、たくさんの医療過疎地がある。というより、札幌市や旭川市などの都市部をのぞけば、多くが「その自治体にあるのは公立診療所ひとつだけ。周囲数十キロにはほかの医療機関なし」という状況だといってもよいかもしれない。私が勤務する診療所もまさにそれで、いちばん近い同規模の診療所までは50km、都市部の総合病院までは70km以上離れている。そうなると、近隣の住民は健康に問題を感じた場合、否応なしに当診療所に来るほかはないのである。
医者がイヤだからこの町を出て行きたい
精神科医からプライマリケア医に転身した私のキャリアを知って、遠隔地から受診しに来てくれる人もいる。北海道は広いので、同じ道内なのに飛行機を使ってやって来た、という人もいた。その人たちに、「来てくださったのはありがたいけど、まさか毎月、通うというわけにもいかないだろうし、地元の診療所の先生に診療情報提供書を書きましょうね。このあとはそちらから処方してもらうといいですよ」と伝えたところ、何度か「やめてください」と言われたことがあった。
「こんなこと言いたくないのですが、ウチの町の診療所の先生はとても怖いんです。頭ごなしに生活態度のことなんかを説教されて、反論すると“イヤならここには来なくていい”って。ほかに行ける病院もないのに。だから2カ月に一度くらい、こちらに通わせてください。」
診療が終わったあとで調べると、そういう医師の多くは輝かしい経歴の持ち主だったり多くの論文を書いていたりすることが多い。決して医療技術が劣っているとか知識がないというわけではなさそうだ。ただ、「話を聴いてくれない」「威圧的、批判的、感情的」という点が患者を失望させ、萎縮させているのである。ある患者はこう打ち明けた。
「住んでいる町は大好きですが、これからもあの診療所にかかるしかない、と思うと憂うつで仕方ありません。持病もありますし、かからないわけにはいかないんです。いま家族で、“複数の医療機関がある町か、もっとやさしい先生の診療所がある町に引っ越そうか”と話し合っています。」
そう思っているのはこの人だけではなく、住民たちで役場に苦情を伝えに行ったこともある。ところが、「この町にやっと来てくれた先生なんだからがまんして」と言われてしまい、「だとしたら自分たちが出て行くしかない」と考えるようになったそうだ。
その話の重さに衝撃を受けて、その後のスタッフとのカンファレンスでアウトラインだけを伝えたところ、「そういう人、けっこういますよ」と言われた。「人工透析を受けられる医療機関が百キロ圏内にひとつだけなのに、そこの医者とどうしても合わなくて、“もう死んでもいいから透析をやめたい”と言った人もいます」などさらに深刻な話が飛び出した。
大都会でも、高圧的な医者に傷つけられるといったことが起きる可能性はあるだろう。その場合、患者は別の医療機関を選ぶこともできるが、また一から検査をやり直すなどして時間がかかり、結局は患者が不利益を被ることになる。もちろん、診療情報提供書を作成してもらえばよいとはいえ、もともとコミュニケーションの問題で転医する場合、それを依頼するのもためらわれ、「そっと別の病院に行く」ということになるのではないか。
では、医師や医療関係者としては、どうすればそんな“患者の悲劇”を防げるのか。もちろん、コミュニケーション技術を高めるのが根本的な解決策になるが、自分ではそれが身についていると思っても、患者は「あの先生、こわい」と思っているかもしれない。
「何か問題ありませんか」と聴くことの効果
私自身は、患者さんにときどき「この進め方で大丈夫ですかね」「何か問題あったら言ってくださいよ」と確認しながら診療を進めることにしている。もちろん、それを威圧的な口調で言えば患者は「いえ、何もありません」と答えるしかなくなるのだが、そこまで考えるとキリがない。「言わないよりはマシだろう」くらいの気持ちで、「何か問題や、ききたいことはないですかね」と繰り返している。
するとごくまれなのだが、「先生の説明はちょっとわかりにくくて」「声が大きすぎて怒られてるみたい」などと言ってくれる人がいる。実は、こういうときの対応がいちばん大切なのだ。そこでつい「ムッとしたり「じゃ、どうすればいいんだ!」といわゆる“逆ギレ”したりしては、何の意味もない。そのときは「そうか、なるほど。気をつけますね。教えてくれてよかったですよ」と、相手の意見を受け止め、これから注意することを伝え、最後に感謝の気持ちを述べる。
これができれば、相手は「自分の気持ちをわかってもらえた」、「もしまた何かあれば、こうやって先生に言っていいんだ」と安心する。これは実際の改善と同じくらい、いや、それ以上に重要なことだと思う。もし次回の診察で医師の言動にあまり変化がなかったとしても、「ああやって伝えれば理解してもらえる」と思えば、それだけで患者は安心できるはずだ。
実は私も何度か、「ちょっと前に先生の声が大きすぎて怖いと伝えたのに、まだ声が大きいねえ」「あっ、ごめんごめん。地声だからつい大きくなっちゃって」といった会話を交わしたことがある。この段階になると、一方的なクレームではなく、ラポール(関係性)の上に成立したコミュニケーションと考えられる。つまり、たとえそれほどの改善がなかったとしても、患者はそれほどストレスを感じなくなり、「まあ、ああいう先生だからね」と寛大に受け止めてくれるようになる場合が多いのだ。
とはいえ、「こうしてほしい」「これはしないでほしい」と患者に言われたら、それを具体的に改善する努力も必要だ。医師としては、改善点を指摘されるだけでもショックかもしれない。私も、「何か問題はないですかね」と尋ねたばかりに「もっとこうして」と厳しいことを言われ、「きかなければよかった」と思ったことも一度や二度ではない。ただ、そこは「言われたからにはなんとか改善しよう」と割り切ることが必要だ、と自分に言い聞かせるようにしている。
日常の診療だけで手いっぱいで、その上、コミュニケーションに気をつけろ、患者に確認しながら改善すべき点は改善しろ、と言われても無理だ、という人もいるだろう。そういうドクターたちのために、冒頭では「ここの先生は話してもわかってくれないから、もうこの町を出て行くしかない」とまで密かに決意している人の話をした。逆に言えば、ほとんどの地域住民は、「あの先生がいるからこそ、この町で安心して暮らしていける」と思っているのだろう。医療機関、医師とはそれほど地域住民にとって重要な存在なのだ。私も「そんなの負担が大きすぎる」と思わずに、「それくらい大切な役割を果たせるのは光栄だ」と思いながら、地域医療の仕事を続けていきたい。
LEAVE A REPLY