G7公約になったLGBT理解増進法の制定を優先
6月から7月に掛けての報道各社の世論調査で岸田内閣の支持率は急落した。岸田文雄・首相は6月21日閉会の通常国会会期末ギリギリ迄衆院解散・総選挙に踏み切る機会を探っていたが、それは一旦見送り、支持率急落の一因とされたマイナンバーカードを巡るトラブルの総点検を実施した上で仕切り直す事になった。
欧米大使館から岸田政権に露骨な外交圧力
ただ、衆院解散を先送りしたところで、今後、内閣支持率が上向く保証は無い。岸田政権は6月、児童手当の拡充等により少子化対策を強化する「こども未来戦略方針」を閣議決定したが、社会調査研究センター(社長=松本正生・埼玉大学名誉教授)が7月に実施した全国世論調査で、岸田政権の少子化対策に「期待する」との回答は僅か16%だった。年末には少子化対策と防衛費大幅増の財源論議が控えており、国民に負担増を求める前のタイミングで衆院解散・総選挙に踏み切るなら今年秋という事になるが、支持率回復の材料は乏しいのが実情だ。
衆院議員任期が切れる2025年10月迄未だ2年以上有るこの時期に岸田首相が衆院解散を急ごう↘としたのは、自身の地元・広島で主要7カ国首脳会議(G7サミット)を開いた外交成果を掲げて衆院選に打って出る好機と考えたからだ。この機を逃せば、ズルズルと内閣支持率が低迷したまま来年9月の自民党総裁選を迎えて首相の座から引き摺り下ろされるリスクが生じる。内閣支持率が多少下がったとしても、日本維新の会や立憲民主党の選挙準備が調う前であれば大きく議席を減らす事は無い。だが、その前提になるのはG7広島サミットの成功だ。岸田首相が衆院解散に踏み切る上でまさかの障害になったのが、実はその広島サミットだった。
G7広島サミットでは、核保有国(米・英・仏)を含むG7首脳が被爆地・広島に集い、平和記念公園の原爆資料館を訪れ、慰霊碑に献花し、「核軍縮に関する広島ビジョン」を世界に向けて発信した。広島ビジョンは、核兵器の使用をちらつかせてウクライナ侵略を続けるロシアを牽制する意味合いが濃いとは言え、核保有国と、米国の核の傘に依存する同盟国から成るG7の首脳が「核兵器の無い世界という究極の目標」を確認した事は画期的と言う他無い。「核兵器の無い世界」の実現をライフワークと公言して来た岸田首相にとって大きな外交成果になったのは間違いないが、そこに至る過程で欧米側が無条件で岸田首相の求めに応じた訳ではない。
サミット開幕を1週間後に控えた5月12日、米国のエマニュエル・駐日大使は欧米を中心とする15の在日大使館によるビデオメッセージを発表した。性的マイノリティー(LGBT等)への差別に反対するそのメッセージには、自民党内の保守派の抵抗によって通常国会での成立が危ぶまれていたLGBT理解増進法の制定を後押しする狙いが込められていた。LGBTに対する「差別は許されない」との条文は保守派への配慮で「不当な差別はあってはならない」に弱められたものの、その程度の中途半端な法律すら制定出来ない人権後進国にG7議長国は任せられないと言わんばかりの外交圧力だった。
4分21秒に及ぶビデオメッセージの中でエマニュエル大使は「日本には今、希望の兆しが見えています。誰一人取り残さない社会を実現する時です。日本国憲法そして日本国民に誠実になろうではありませんか」と呼び掛けた。英国のロングボトム・駐日大使はG7広島サミットへ向けて「G7議長国を務める日本の下で性的マイノリティーの人達の平等な権利に向けた具体的な成果を期待しています」と訴えた。日本を名指しし、日本国憲法に迄言及し、日本社会の現状に警鐘を鳴らすメッセージに、自民党保守派からは「内政干渉だ」と反発の声が上がった。
G7首脳宣言には、岸田首相の思いに応える「核兵器のない世界の実現に向けた我々のコミットメント」が明記された一方、「あらゆる多様性を持つ女性及び女児、そしてLGBT等の人々の政治、経済、教育及びその他社会のあらゆる分野への完全かつ平等で意義ある参加を確保」する事も盛り込まれた。G7議長国としてこの首脳宣言を取りまとめた岸田首相は、G7広島サミットで核廃絶への一歩を記すという外交成果を上げたのと引き換えに、LGBT等の人権を守る具体的な施策を目に見える形で示す必要に迫られ、LGBT理解増進法の通常国会成立は事実上の国際公約になったのである。
読売新聞社説が首相に突き付けた二者択一
G7広島サミットの外交成果を掲げて衆院解散・総選挙に踏み切るという岸田首相の思惑はそこから大きく狂って行く。保守層の離反が懸念される事態に直面した通常国会の最終盤、①G7広島サミットの国際公約を優先して衆院解散を諦めるか、②LGBT法の成立を見送って保守層の支持を繋ぎ止め、衆院選に打って出るか——の二者択一を首相に突き付けたのが6月13日の読売新聞朝刊に掲載された社説だった。
「LGBT法案 首相と自民の見識が問われる」と題したその社説は「この法案の内容で、女性の安全を守れるのか。教育現場は混乱しないのか。様々な懸念を残したまま、拙速に法整備を図ることは許されない」と断じた。政権擁護の論陣を張る事の多い読売新聞の社説が、LGBT法に反発する急進的な保守派の意見に依拠して政権批判を展開した点も然る事ながら、注目を集めたのが「会期内成立に舵を切ったのは、岸田首相だという。法制化を強く求めて来た公明党への配慮からだとされている。衆院選の候補者調整を巡って、ぎくしゃくした公明党との関係を修復する狙いがあるのだとすれば、筋違いも甚だしい」とのくだりだ。
LGBT法の成立に反対する社説であるにも拘わらず、東京都内の候補者調整を巡る自公対立に論点を広げ、衆院解散へ向けた公明党への根回しだと決め付けて批判して見せたのはもはや政策論ではない。その意味するところは「公明党の協力を得られたとしても、保守層が離反すれば衆院選は戦えない。LGBT法を通常国会で成立させるなら衆院解散は見送るべきだ」という警告だったのではないか。
この社説が掲載された6月13日当日の記者会見で衆院解散について問われた岸田首相は「会期末間近になって色々な動きが有ることが見込まれる。情勢をよく見極めたい」と答えた。それ迄「今は考えていない」と繰り返して来た首相が初めて解散を検討している事を公に認めた形になり、与野党に緊張が走ったが、その3日後の6月16日、LGBT法が成立。岸田首相は前日、記者団に「今国会での解散は考えていない」と解散見送りを表明した。読売社説が突きつけた「G7公約か、衆院解散か」の二者択一に対する首相の答えは「G7公約」だった。当然の選択だろう。岸田政権が何年続くかに拘わらず、広島サミットはレガシー(政治遺産)として後世に引き継がれる。首相にとって誤算だったのは、衆院選勝利へのステップになる筈だった広島サミットが解散の障害になってしまった皮肉な現実だ。
21年10月の衆院選に続いて昨年7月の参院選に勝利し、岸田政権は次の参院選まで選挙対策を気にせず政策実現に専念出来る「黄金の3年間」を手にしたと言われた。その岸田首相が「サミット解散」を模索した背景には、来年秋の自民党総裁選を勝ち抜く党内基盤の構築が見通せない不安と、それ迄に内閣支持率を反転させられる材料が見当たらない焦りがちらつく。通常国会で自ら「解散風」を煽った末の見送りは、そんな岸田首相の弱点を露呈する形になり、このままでは今年秋の衆院解散も難しいとの見方が永田町に広がっている。
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