企業の「人的資本経営」と「健康経営」
前回まで述べてきたように、企業も、医療機関ほどではないかもしれないが「社会に貢献する」という目的を重視するようになってきている。そして、このような状況だからこそ、企業が人を重視するようになってきたとも言える。
ここで「人的資本経営」という言葉に触れたい。何のことか分かり難いので説明すると、「人的資本」というのは、今ま人を資本と見なして大事にするということである。資本とは一般的に「事業活動のための資金」を指すことが多いが、もっと言えば「それを使って利益を生みだすもの」でもあるため、実は事業を遂行する「人」もその根源として捉えると資本である、という考え方である。
などと言うと、ますます搾取されるのではないか、といったイメージになるが、必ずしもそうではない。実は大きな企業、例えば上場企業などは、経営状態の数字を4半期ごとに開示しなければいけない。これは外部に正しい経営をしているという証明になる。一方で、財務の数字だけだと、あくまで過去の数字であり、将来を予測することができないという批判がある。つまり、企業の成長性は過去の数字ではなく、現在いる従業員が創り出すものだという考え方である。こうした見方に伴って「企業にどんな人材がいるのか」が重視されるようになってきたのである。
同様に、「健康経営」という考え方の普及もある。これは産業医などをしている医師には聞き慣れた言葉かもしれないが、働き方改革と表裏一体とも言える。健康経営は、人口が減少し、働く人が少なくなってきている日本において、従業員に高い生産性を持って働いてもらおうという考え方が根底にあり、そのためには心身ともに健康でなければいけないといった考え方である。そこで、彼らが健康でいられるための投資などが行われる。例を挙げると、過剰投資かもしれないが職場にフィットネスのジムを作ったりする会社も現れた。そもそも「働き方改革」は従業員が過重労働になることを防ぎ、健康維持を目的とする側面もある。
企業であるからには利益を出さねばならないという側面はあるにせよ、これまでとは違い、かなり被雇用者に優しい状況になってきた。さらに、近年では副業を認める会社も増えてきており、昔の「会社人間」というイメージからは随分異なってきている。
さて、最近の会社の動きが分かってきたところで、少し医療分野に戻ってみよう。
高度プロフェッショナル制度と医師
この連載でも時々触れているが、米国の場合、医師は病院に所属していないケースが大半であった。「あった」と書いたのは、米国ならではの特殊事情があり、最近では医師が作る組織か病院かは別にして、組織に所属している場合も出てきているからである。
ちなみにこの特殊事情というのは、マネジドケアと言われる民間の保険会社が、医師に支払う金額の問題や、患者から訴訟された時の医師賠償責任保険を含む医師1人では対応の難しい業務を担うという状況である。日本では、地域医療連携推進法人によって、薬剤や医療材料を購入する時の金額交渉を医師が行わずに済むのと同様、米国の場合、医師が交渉することは極めて少ない。中心はドクターフィーの交渉になり、その時に組織が大きい方が交渉しやすいということである。
それはさておき、高度専門職である医師は自らを律することができ、医療の質の担保も自らが行い得る専門家であると考えられる。この連載でも時々プロフェッショナルとは何か、のような議論をしてきたが、専門性が高い職種では、そのような立場になることについてはあまり違和感がないであろう。
実際「働き方改革」においても、「高度プロフェッショナル制度」として、労働時間管理の例外を設けている。高度プロフェッショナル制度とは、一定の年収要件(年収1075万円以上)を満たし、高度の専門知識等を有する労働者を対象に労働時間に基づいた制限を撤廃することで、後述のようにいくつかの職種が挙げられているし、従事した時間ではなく、得られた成果で評価するとされる。言い方を変えれば、「一定の要件を満たし、仕事内容の範囲が明確で専門的かつ高度な能力を持っている労働者」は、高度プロフェッショナル人材である、ということになる。具体的には下記である。
1.金融工学等の知識を用いて行う金融商品の開発の業務(金融商品の開発業務)
2.資産運用の業務または有価証券の売買その他の取引の業務(ファンドマネージャー、トレーダー、ディーラー)
3.有価証券市場における相場等の動向や価値分析、投資に関する助言の業務(アナリスト業務)
4.顧客の事業の運営に関する重要な事項についての調査、分析、助言の業務(コンサルタント業務)
5.新たな技術、商品または役務の研究開発の業務(メーカーや製薬の研究開発職)
経済学者のピーター・ドラッカーも、知識労働の職場として「教育・研究、投資ファンド、コンサルティングファーム、ファブレスメーカ、製薬会社など」のいくつかの職場をあげている。また近年は、金融ディーラーやアナリスト、コンサルタント、ITエンジニア、データサイエンティスト、マーケターなどに加え、専門医もナレッジワーカー(知識労働者)と見なされている。ここで、医師がどのような立場かが問題になる。
医師を労働者と見なす制度が騒動の元
医師は、社会通念上はナレッジワーカーの一職種と見なされながら、高度プロフェッショナル人材には選ばれていないことから、制度上は労働者と認定されたのである。逆に言えば、時間に関係なく成果を出す職種ではなく、自分の時間を人から命令されることなく自分で管理できる仕事ではないという位置づけとも言えよう。
筆者は、ここが現在の医師を巡る働き方改革の騒動の大きな分岐点になったと思っている。医師が高度プロフェッショナル人材に選ばれていれば、当然、時間管理の必要がなくなるので、現在病院で起きている、働き方改革に関する騒動は必要なくなるということだからである。
この連載でもすでに記載したように、出生率が低下し年間の出産数が80万人を切ってしまっている日本において、働き方改革はやむを得ない方向である。先進国であれば、ヨーロッパのように労働時間を厳しく管理し、従業員が健康で自分の生活を大事にできるようにするという考え方があってもおかしくない。しかし何故、医師がこの高度プロフェッショナル人材として選ばれなかったかはよくわからない。
厚生労働省は、旧厚生省と旧労働省が一体化したものであり、働き方改革は官邸主導で労働省が実行部隊となって行ったものである。従って、旧厚生省の考えが導入されていないのか、そもそも導入するつもりはなくてこのような制度になったのかが、よく分からない。
次回に詳しく述べるように、そもそも自立を好む医師に対してこのような制度を導入したことは、フリーランス医師のさらなる増加を招く可能性がある。最近、医師で起業する人が増加していることもそれを裏付けよう。
筆者のように救急などの本格的な医療現場から離れ、教職に就いている者が言うのもおこがましいが、さらなる医師不足を招かないとも限らない状況である。余談をついでに述べれば、制度を決めている文化系の官僚や学者は、医師の生態というものを100パーセントわかっているわけではない。行動経済学ではないが、制度をいじることは簡単でも、なかなかそれが良い方向へと実行されることは難しいのではないか。
次回、ヨーロッパなどの例も参照にしながら、フリーランス医師についても少し考えてみたい。
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