難病治療に大きく貢献する細胞治療の着地点は
今尚有効な治療が見つかっていない難治性疾患に対して、希望の光となるのが再生医療だ。2012年のノーベル賞で注目されたiPS細胞(人工多能性幹細胞)は臨床応用を目指した研究が進む。一方、ES細胞(胚性幹細胞)、iPS細胞に続く“第3の多能性幹細胞”として、10年に見つかったMuse(ミューズ)細胞の実用化が暗礁に乗り上げている。
23年2月、三菱ケミカルホールディングスはMuse細胞製剤の開発中止を発表した。同社の再生医療開発本部であり100%子会社の生命科学インスティテュート(LSII、本社・東京都千代田区)では、15年から同製剤の開発を進めていた。健常者から採取した間葉系幹細胞からMuse細胞を取り出して培養し凍結保管した製剤(CL2020)を作製し、これをヒトの静脈内に点滴投与する療法の臨床試験が進行中だが、行く末は混沌として来た。
Muse細胞を発見したのは、東北大学大学院教授の出澤真理氏である。Muse細胞は生体内に備わっている幹細胞で、骨髄や皮膚由来の間葉系幹細胞に存在する。全身の様々な細胞に分化する多能性を持ち、ストレスに強い事から、Muse(Multilineage-differentiating Stress Enduring cell)と命名された。受精卵から作られるES細胞の様な倫理的な問題が無く、人工的に作製されたものでない事から腫瘍化する可能性が極めて低いという特長がある。又、体内に注入すると、傷ついた臓器へと自然に向かい、修復されるべき細胞へと分化するという利点がある。
07年出澤氏は、イヌの間葉系幹細胞から誘導した骨格筋細胞を継代培養中、誤って消化酵素のトリプシンに細胞を浸けてしまった。翌朝、骨格筋細胞は消失していたが、生き残った細胞が在った。こうして偶然見つかった幹細胞は、ヒトES細胞が持つ多能性幹細胞マーカーであるSSEA-3を発現していた。Muse細胞は、SSEA-3と間葉系細胞のマーカーであるCD105陽性の細胞として同定出来る様になった。
Muse細胞は、成体の骨髄液から採取した骨髄単核球細胞の約3000個当たり1個存在する。発見当初は間葉系組織のみに存在すると考えられていたが、骨髄から血液通じて各組織に供給され、組織を構成する細胞種に自発的に分化する事で、傷害細胞を置換し組織を修復する。傷害された細胞を微小レベルで補充し、組織恒常性に寄与するという。生体が大きな傷害を受けると、Muse細胞が末梢血から傷害組織に集積して修復を担う。脳梗塞や心筋梗塞の患者では、急性期に於ける末梢血中のMuse細胞数が平常時に比べて有意に増加、動員数が多い患者では、慢性期に統計的有意差のある機能回復を示す事も報告された。
安全性が高く静脈内投与が可能
内因性のMuse細胞では数や活性が不十分な場合、或いは傷害が重篤で広範な場合、Muse細胞を補充する再生医療が有用だと見込まれる。治療に際し外科手術は不要で、静脈内投与すれば、臓器共通の傷害シグナルであるスフィンゴシン‒1‒リン酸を検知して傷害部位に集積する。免疫特権が有り、HLA適合をせず免疫抑制剤を使わなくても、ドナーのMuse細胞は分化状態を維持したまま組織内で長時間生存出来る。
動物実験で抗腫瘍性の有無等、安全性を確認すると共に有効性を検討し、三菱ケミカルと独占ライセンス契約を結んでLSIIに開発が託された。同社は先ず18年、急性心筋梗塞の患者を対象に安全性と有効性を調べる探索的臨床試験を開始。続いて、脳梗塞、表皮水疱症、脊髄損傷、筋萎縮性側索硬化症(ALS)等についても臨床試験が進められた。19年に同社が稼働させた細胞加工施設(CPC)は再生医療等製品製造業許可を取得した。同年三菱ケミカルは、田辺三菱製薬も完全子会社化を表明し、事業化後の収益を最大化する事を見据えた準備をしていたとされる。
脳梗塞で有効性を示すも早期承認断念
脳梗塞に対するCL2020のプラセボ対照二重盲検比較試験では、発症後14〜28日以内で標準的な急性期治療後も中等度から重度の身体機能障害を有する(mRS4〜5)患者35人に単回投与が行われた。投与後52週迄に重要な副作用は認めらなかった。1年後の有効性評価では、介助無しに公共交通機関の利用や身の回りの事が出来る状態(mRS2以下)迄回復した割合は68.2%(22例中15例)だが、対照群(プラセボ投与)は37.5%。職場復帰を果たせる状態(mRS1)に迄に回復したのは、対照群0に対し、実薬群は31.8%(22例中7例)だった。
LSSIは、再生医療を促進する為に国が14年に導入した「条件及び期限付承認制度(早期承認制度)」での申請を目指していた。安全性が確認出来れば、有効性は推定で、言わば“仮免許”の承認を与え、その後に有効性を確認するものだ。この制度により、15年に心不全治療製剤(テルモ「ハートシートⓇ」)の治験は、プラセボ群を設けない7例の試験結果に基づき承認された。18年の脊髄損傷治療製剤(ニプロ「ステミラックⓇ注」)もプラセボ群無しの13例で早期承認された。しかしCL2020は21年秋、対照群との有意差が無い事を理由に、医薬品医療機器総合機構(PMDA)が「申請は困難」との判断を示したという。これについては、早期承認が『Nature』誌等から拙速な仕組みではないかと批判が呈された事も有って、当初より制度が厳格化された可能性も指摘されている。本承認申請後は優先審査がなされるが、これ迄適用された4件は、本承認には至っていない。
21年4月、米国化学大手ダウコーニングのCEO等を経て、三菱ケミカルで初めての外国人社長の就任したのが、ジョンマーク・ギルソン氏だ。就任当初から、株式の利益を最大化し高付加価値領域に重心を移す事を表明していた。12月にCL2020の早期承認を断念し、完全な第3相試験に向けて取り組んで行くとしながら、10年以内の同社の収益への貢献は期待出来ないとの見解を示していた。そして中長期経営計画策定中、事業構造を見直し、選択と集中で低収益事業からの撤退等を進める一環で、今回の開発中止に至ったとされる。安全性や有効性の問題ではない事を強調しており、進行中の治験については治験終了迄継続するという。
出澤氏は、トップ交代以降、同社は再生医療に消極的になり、研究者や医師への説明が不十分になったと不信感を抱き、1月末迄に独占ライセンスを返還する様求めており、同社も解約の方針である。開発中止発表後に出澤氏等が開いた会見では、心筋梗塞の治験に参加した協力医から、製剤投与で心筋が半分に縮小したのに心臓ポンプ機能は殆ど変化しなかったとされる等、同社の報告への疑念も出された。試験結果は未だ公表されていないが、両者の溝は深い。
一方で科学的な知見は蓄積されつつある。Muse細胞が傷害臓器に遊走した後、臓器を構成する適切な細胞に分化して組織修復する機構は長らく不明だった。22年、出澤氏等は、Muse細胞、神経幹細胞、間葉系幹細胞等の体性幹細胞が傷害を受けて細胞死した細胞を貪食し、転写因子等を再利用する事で、短期間でエラー無く貪食した細胞と同一の細胞種へ分化する機構の存在を報告した。
生体内に在る幹細胞を採取し、サイトカインや遺伝子導入等で段階的に刺激して目的の細胞に分化させるには数週間から数カ月掛かるが、生体内の分化ならば数日で十分だ。組織の損傷時、サイトカイン刺激等の煩雑な誘導法でなく効率的に分化させられ、目的と異なる細胞の混入を防ぐので、品質の高い細胞製剤の作製が期待される。
人間は本来、自己を修復する機構を持つ。それを上手く制御出来れば、生物学的に理に叶った再生医療が実現する。ミューズと言えば、ギリシャ神話で学術・芸術を司る女神。この細胞治療の着地点を注視したい。
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