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未来の会

第19回 私と医療 ゲスト 岩﨑 榮 日本医科大学 名誉教授 NPO法人卒後臨床研修評価機構 理事長

第19回 私と医療 ゲスト 岩﨑 榮 日本医科大学 名誉教授 NPO法人卒後臨床研修評価機構 理事長
GUEST DATA岩嵜 榮(いわさき・さかい)
①生年月日:1933年1月30日 ②出身地:佐賀県佐賀市 ③恩師:長崎大学医学部内科学第2教室 筬島四郎先生 ④好きな言葉:努力 ⑤幼少時代の夢:法律関係の仕事 ⑥将来実現したい事:良い医療者の養成
突然の進路変更で医学部へ

佐賀県佐賀市の生まれです。父が佐賀県立病院の産婦人科部長に赴任していた時、そこの宿舎で生まれました。宿舎で生まれたのは、父が出産に間に合わなかったからです。父は寡黙な医師で、子供達に何かを言う事も無かった。母はとても几帳面な性格だったと思います。母のそんな性格を受け継いでいますね。

父は私が生まれた後、母校の九州大学へ戻り、その後、郷里の伊万里で産婦人科医院を開業しました。その為、私は旧制伊万里小学校・伊万里中学校・伊万里高校と、幼稚園からずっと伊万里で過ごしました。中学に入学した年が終戦で、一気に新しい文化に触れて行きました。兄弟は兄2人の3人兄弟です。小学生の頃から兄弟3人とも成績は良かったですね。長兄は長崎大学医学部に進み、父と同じ産婦人科医になりました。次兄も長崎大学医学部に行ったのですが、突然亡くなりました。忘れもしない大学受験の年の2月6日の事です。次兄の死が、私が医学部に行く様になった切っ掛けです。

当時の私は判事になりたかった。京都の三高から東京大学法学部に進み、各地の判事をしていた叔父に憧れて、京都大学の法学部を受験するつもりでした。「兄2人が医者なのだから、1人位は他の分野でも良いだろう」という訳です。ところが次兄が急死。その時、父から「おまえにも医者になって欲しい」と懇願されました。父が子供達に何かを命じる事等、過去に1度も有りませんでした。それだけに父の言葉の重みが伝わって来ました。

私は既に京都大学に1次合格していたので、迷いに迷いました。時は既に2月。そこから医学部に進路変更が可能かどうかも分かりません。今から受験出来る大学を探したところ、長崎大学なら間に合うという事で、急遽、長崎大学医学部に進路変更です。父は大層喜んでくれましたが、受験直前に文系から理系への変更です。合格は二の次で、「医学部を受験した」と父が納得してくれれば良いと受験しましたが、無事に入学。両親は喜んでくれましたね。

有意義だった教養学部の2年間

当時の大学にはまだ教養学部というものが有り、専門分野に進む前に2年間、様々な仲間と多くの学問を学びます。元々文系志望で、中学生の時には島崎藤村等の小説ばかり読んでいましたから、他の学部の人達と交流が出来る教養学部の時代は、非常に楽しい思い出です。この2年間はよく遊びよく学びました。人間形成にとても有意義な時間だったと今でも思っています。

私は教室が汚いと落ち着いて勉強が出来ない性分で、毎朝早く教室に行っては黒板を綺麗に掃除していましたね。白墨も整理して、教員達が講義し易い様に整えておく事が私の4年間の日課でした。開業医の家で育ちましたので、看護師さんやお手伝いさん等大勢が一緒に生活をしていました。竈で炊いたご飯を皆で食べ一緒に片付ける事が当然で、風呂掃除もしていたので、特に意識することもなく、クラス委員として出席を取るのも私の役目でした。今振り返ると「不思議な奴」と思われていたでしょうね。今でもクラスメイトの名前は覚えています。

最近は専門化が進み、特に単科大学等は入学直後から専門教育が始まりますが、技術やテクニックだけでは良い医者にはなれません。人間的な幅の広さが必要です。そういう意味でも、東京大学等の国立大学で実施されている「教養学部制度」は大切だと思います。

良い病院作りを目指して奔走する日々

卒業後に第2内科に入局して大学院に進学しましたが、1年で辞めました。当時、私は結婚していて早く給料が欲しかったからです。妻から「医者になったのに給料も貰わず、親からの仕送りで生活するのは嫌です」と言われ、大学院を辞めて働く事にしました。医局からの派遣であちらこちらの病院へ赴任しました。病院や療養所等、5〜6年の間にいくつもの施設に行きましたが、全て良い経験になりました。国立療養所に赴任した時に、そこの患者さん達の協力を得て、最終的に博士論文を仕上げました。

当時は病院経営者にとって医師を調達するのが大変難しく、大学の医局長に頼らざるを得ない時代。卒業後は系列病院に赴任するのが当たり前でした。しかし、私は入った大学に左右されるのではなく、進むべき道は自分自身で決めたいという性分です。私自身が長崎大学医学部の第2内科で医局長だった時、国立大村病院(現在の国立病院機構長崎医療センター)の院長(長崎大学第1内科出身)から大村病院の再建を懇願されて、内科部長として赴任しました。大村病院は長崎大学の第2内科の系列病院ではありません。その為、内部からは「医局長自らが行くとはどういう事か!」とかなり反対されましたが、院長の期待に応えようと再建と再興に向かいました。

結局、内科部長になり、良い病院を作る為に自分なりにかなり尽力しました。院長とは喧々諤々の話し合いもしました。皆が病院再建の為に様々な取り組みをし、礎を築いた時代といっても良いでしょう。ところが院長が病気になって死ぬ間際に発した言葉は「岩﨑だけには後を継がせては欲しくない」だったのです。最後の頼みだとばかりに辞職を迫られ、私の知らぬ間に、本人の同意も無いまま長崎県保険部理事へ異動になっていました。

翌年の1983年に長崎県立成人病センター多良見病院の院長に着任しましたが、この病院がまた大変で、組合運動が非常に活発だったのです。着任前に「どういう病院ですか」と聞くと、病院の周りに赤旗が所狭しと立っている様な病院だとの説明でした。辞令交付の時に知事からは「岩﨑さん、あなたの力であそこの赤旗を全部撤回して欲しい」と言う直々の命令です。

着任してみると、噂通り玄関から表通りにかけてズラッと赤旗が並んでいました。真っ先に取り掛かった仕事が組合との交渉です。それこそ三日三晩徹夜で話し合い、組合の要求も聞き、妥協点を見つけ出し、最後には彼らに旗を降ろしてもらいました。

国立大村病院時代に院長と一緒によく東京へ陳情に行っていたのですが、ある日、当時の局長さんから電話が入りました。「東京に出て来ないか」という事で、ろくに内容も聞かないままに東京行きを決めました。当然ながら、長崎県知事からは「1年もしない内に辞めるなんてどういう事ですか!」とお叱りを受けました。

厚生省に赴くと、病院管理研究所(現・国立保健医療科学院)の所長さんが待ち構えていて、「明日から早速講義を始めて下さい」と言われました。「何をするのですか」と聞くと、「やってみれば分かりますよ」という返事でした。既に前任者も辞めてしまっており、引き継ぎも有りません。その為、自分の思う通りの講義をしました。国立病院の副院長や看護部長を対象とした、1週間ぶっ通しの研修会を行いました。そこで、75年に参加した第2回「医学教育者のためのワークショップ」、所謂“富士研”の経験を生かしました。長崎医療センター時代の研修をベースにしたワークショップ形式の講習だったのですが、「漸進的で素晴らしい」と好評を得ました。すると今度は「国立病院の教育をやって欲しい」と言われました。経験していたから出来た事だと思います。

この富士研は、故・髙久史麿先生と出会った場でもあります。同じグループで8日間、寝食を共にしながら学びました。「師と仰ぎ見るに足りる人物だ」と思いました。以来50年、多くの仕事をご一緒しました。ご冥福をお祈りします。

その髙久先生と一緒に始めた活動の1つに、2000年に立ち上げた「癒しと安らぎの環境」フォーラムがあります。命名は名誉委員長の日野原重明先生にお願いしました。それ迄、日本の病室は本当に殺風景でした。その環境を良くする為にはどうすれば良いか、更に老人医療施設やホスピス等の建築についても討論するべきだと考え、デザインや建築の専門家の人達にも建物だけではなく中身の問題にも関心を持ってくれる事を期待しました。表彰する病院を募集したところ、想像した以上の256件もの応募が有りました。応募された病院や介護施設は、審査委員が驚く程の充実した内容でした。日本らしい和風テイストを取り入れた素晴らしい病院も有りました。「癒しと安らぎの環境」フォーラムは今年で20周年です。単にアートを飾るだけではなく、そこの職員、医師や看護師も含めて、そこに働く人達の意識が患者さんに向かう事で環境は益々良くなって行くと思います。

「総合診療医」を育てていきたい

その後、新医師臨床研修制度が導入された事から、07年に「卒後臨床研修評価機構」を立ち上げました。この準備の為に、米国シカゴの医療機能評価機構JCに2週間程サーベイヤートレーニングの研修に行きました。この時に、日本に欠けているものは“評価”だと気付かされました。医療や教育には評価が必要ですね。05年には横浜市病院事業管理者に就任し、横浜市立の脳外科専門病院と大学病院の医療センターの合体に取り組みました。脳外科は単独で存在するよりも複数の他の診療科と同じ場所に在る方が良いと考えた訳ですが、この構想が住民運動に迄発展してしまい、「岩﨑を辞めさせろ!」と「脳外科病院の閉院」だけが1人歩きしてしまったのは残念です。

日本の病院はまだまだシステム化というものが上手に機能していません。コロナ禍の様子を見ても、病院間の連携が上手く取れていません。1つ1つの病院は上手く機能しているのでしょうが、病院・診療所と保健所との連携が上手く取れない。それが、新型コロナウイルスという人類が経験した事の無い様な出来事によって一気に浮き彫りになった。そうなった理由の1つは、「あの病院はどこどこ系列だ」と未だに系列に拘っている点です。これでは連携など出来る訳が有りません。

又、専門分野への特化が進んで行くと、連携はより難しくなる。私は物事を俯瞰的に見る事を学びました。私を東京に呼び寄せた厚生省の局長さんもそうでした。「日本は世界から見たら離島の様なもの。長崎の離島だけを考えるのではなく、日本の医療がどう在るべきかを考えてみませんか」。この言葉は、当時、長崎の離島医療に取り組んでいた私には殺し文句となりました。

俯瞰的な物の見方は、政治や経済だけでなく、医療にも必要です。今、世界の医療の中心はアメリカです。アメリカの様な大きな国では既にシステムが出来上がっていますが、日本は全く出来ていない。積極的に留学して、海外の医療を見てみる事がより必要だと思います。

近年の日本は、専門に特化し過ぎて、広い視野を持った医療人が少なくなって来たように感じています。最近になってようやく、「総合診療」という言葉が注目されて来ましたが、今後はもっと総合診療医を育てて行く必要が有ると思っています。

インタビューを終えて

岩﨑榮先生と最初にお会いしたのは1998年。当時、厚労省が推進する「患者満足度」「看護師満足度」「医師満足度」を広める為の啓蒙ビデオを作成していた。これは、患者満足度を高める医療こそが看護師満足度を、引いては医師満足度を高めるという新しい思考だった。その際、厚労省から監修は岩﨑榮先生にお願いして欲しいとの意向が有り、指導を頂いた。この時先生は日本医科大学常任理事だったが、2000年に立ち上げた「癒しと安らぎの環境」フォーラムでは実行委員会委員長として大所高所からご指導を頂いた。錚々たる理事の皆様と共にスタートしたが、その多くは岩﨑先生のお声掛けで参集して下さった先生方だった。そして、会費1万円を振り込んで下さった会員第1号は岩﨑先生の奥様だった。今でも忘れる事はない。その後、事務所をご一緒する期間があり、毎日の様にランチをご一緒させて頂きながら、様々な話を傾聴する時間は有意義だった。08年の『集中』創刊時には準備号の表紙にご登場頂いた。弊誌が医学・医療界へ広く浸透出来たのも、お世話を頂いた岩﨑先生のお陰であると深く感謝している。(OJ)

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