「再分配路線」後退、浮かび上がる首相の理念無き変節ぶり
岸田文雄政権は「新しい資本主義」の実行計画を閣議決定した。従来首相が唱えていた「新しい資本主義」の理念は「再分配重視への転換」だった。それが閣議で政府方針に格上げされた方針は投資や成長重視に寄り、「再分配」や「格差是正」は霞んでいる。主張を曖昧にして敵を作らない事で頂点を目指してきた岸田路線の真骨頂とも言える実行計画からは、首相の理念無き変節ぶりが浮かび上がって来る。
経済財政諮問会議と新しい資本主義実現会議が合同して開かれた6月7日。実行計画を決めるに際し、岸田文雄・首相は「市場で解決出来ない大きな社会的課題をエネルギー源と捉え、新たな成長を図る」と述べた。更に同時に決定した経済財政運営の基本指針「骨太の方針2022」に触れて「成長と分配の好循環を実現する岸田内閣の経済財政政策の全体像を示している」と語り、「次は実行だ」と強調してみせた。
「人」「科学技術・イノベーション」「スタートアップ」「グリーン」「デジタル」——この5分野に重点投資をするとした「新しい資本主義」の実行計画。目を引くのは「人」への投資として、1000兆円余の家計の現預金を投資に誘導する事を狙う「資産所得倍増プラン」を年末迄に策定するとしたくだりだ。個人投資家向けの優遇税制「NISA」の拡充により、国民を「貯蓄から投資へ」促す事を想定している。
首相が昨年9月の自民党総裁選の公約に掲げていたのは「令和版所得倍増計画」だった。歴代政権の新自由主義政策によって中間所得層が細り、格差が開いた事を反省し、再分配による格差是正を主張していた。実際、今年1月の国会では「次世代を担う子育て・若者世代の世帯所得に焦点を絞って、倍増を可能とする改革に取り組んでいく」と語っていた。
実行計画閣議決定、衝突嫌う首相の姿勢反映
ところが閣議決定された実行計画では、「所得倍増」が「資産所得倍増」へと変わった。賃上げや100万人を対象とする能力開発等は掲げつつも、投資、成長が前面に出る内容に姿を変え、再分配は影を潜めた。計画策定に携わった官僚の1人は「あちらこちらに気を配った内容で、何がしたいのか分からない」と苦笑する。
そもそも首相は総裁選当時、再分配の為の財源として「金融所得課税の強化」を主張していた。ところが株価が下落して党内外から猛反発が起こり、慌てて引っ込めた経緯がある。従来は憲法9条の改憲を否定していたにも拘わらず、支持を得たい安倍晋三・元首相の不興を買うや否や直ぐに発言を修正した。首相は安倍氏が凶弾に倒れたのを受け「できるだけ早く(改憲)発議に至る取り組みを進めていく」と踏み込んだ。
あ「新しい資本主義」にも、人との衝突を避けて自分を守ってきた首相の姿勢が反映されている。ネーミング自体、首相の意向だ。当初、側近の木原誠二・官房副長官らは「公益・公共資本主義」等の複数案を示していたが、首相は「特定の色が付くな」と言って、万人が反対しそうにない「新しい資本主義」とした。
そして最初は「再分配重視」だった理念も、成長重視のアベノミクスを打ち出した安倍元首相周辺から「アベノミクスや従来の資本主義の否定だ」との批判が漏れ伝わると、即座に軌道修正を図った。5月5日、外遊先の英国金融街・シティ。演壇に立った首相は「日本経済はこれからも力強く成長を続ける。Invest in Kishida(岸田に投資を)」と訴え、投資・成長重視路線へと舵を切った。
だが、国民に投資を促す方針に対し、野党からは「貯蓄ゼロの世帯も多く、投資したくてもお金が無い」との批判を浴びている。高齢世代はともかく、現役世代の場合、貯蓄はあっても住宅購入や教育費に備えた資金が多くを占める。厚生労働省幹部は「貯金を元本割れリスクのある投資に振り向けられる人は少数派。投資の余裕が有る高所得層はますます富んで格差が拡大する」と漏らす。
再分配路線の後退は、政府方針の「全世代型社会保障」の推進にも影を落とす。
社会保障政策の柱に掲げる勤労者皆保険とは
「子ども政策を社会の真ん中に据える」。首相は就任以来、そう約束してきた。ただ、6月3日に公表された合計特殊出生率は1・30と過去4番目の低さに留まり、出生数も過去最低を更新した。
打開策として政府内では、雇用保険を活用した子育て世帯への給付充実が模索されている。それでも雇用保険を拡充する以上、企業が払う保険料のアップは避けられない。経済界の猛反発が予想される中、成長重視を掲げつつ企業に負担増を求めるのは容易ではない。かといって、首相は消費増税は早々に封印している。再分配で捻出する筈だった財源に目処は立たず、「社会全体での費用負担の在り方を検討する」というだけだ。
首相が社会保障政策の柱に掲げる「勤労者皆保険」も揺らいでいる。フリーランスで働く人や、ネットで単発の仕事を請け負う「ギグワーカー」らも厚生年金等の被用者保険に加入させる構想だが、厚労省の試算に拠ると、実現すれば事業主の負担は年に3160億円増すという。
年金制度の改定に因り、24年度迄にパートらの加入基準が「従業員501人以上」の企業から「51人以上」に広がる事が決まっている。次のステップとして厚労省は「企業要件の撤廃」を想定しているものの、中小企業の負担増に直結するだけにそれだけでもハードルは高い。厚労省幹部は「ギグワーカーらへの適用なんて遠い将来の課題だよ」と言い切る。
「新しい資本主義」の実行計画と同時に決まった骨太の方針にも、社会保障全体について「若年期、壮中年期、高齢期のそれぞれの世代で安心出来るように構築する」方針(全世代型の社会保障)が盛り込まれた。新味の無い個別策が並ぶ中、特異なのが「生涯を通じた歯科検診(国民皆歯科健診)の具体的な検討」だ。
国民皆歯科健診「骨太の方針」入りの背景
確かに、口腔疾患が多くの全身疾患と関連している事は指摘され、後藤茂之・厚労相も「具体化を前向きに進めたい」と意欲的だ。日本歯科医師会の堀憲郎会長は「口腔と全身の健康のかかわりについて、もっとエビデンスを示して理解を深めたい」とコメントし、開始時期について「3〜5年後が目処」と話している。
だが、こちらも財源の詰めはこれから。歯科医師だけでなく、地方での歯科衛生士等の人材確保も課題になる。国民皆歯科検診は歯科医師会の要望を受けた自民党が昨年の衆院選公約に盛り込んだ。今回骨太に書き込まれた背景について、厚労省の関係者は「業界の要望を踏まえ、自民党族議員がプッシュして来た」と明かす。
骨太方針、「新しい資本主義」の実行計画共に各業界の言い分や政策課題が総花的に並び、国民や業界に痛みを強いる部分は殆ど無い。
「結局、参院選でバラマキをする為の理屈付けにするんでしょ」。自民党の政策決定の裏側をよく知る官僚OBはそう見透かしている。
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