①生年月日:1953年11月6日 ②出身地:東京都 ③感動した本:『坂の上の雲』『竜馬がゆく』司馬遼太郎、「ファウンデーション」「ロボット」シリーズ アイザック・アシモフ、「怖い絵」シリーズ 中野京子 ④恩師:横浜市立大学医学部第2外科・嶋田紘名誉教授、同・土屋周二名誉教授、横須賀共済病院・細井英雄元副院長、神鋼病院・山本正之前院長、山梨医科大学第1外科・菅原克彦名誉教授 ⑤好きな言葉:失敗から学ぶ 後の世代のために、少しでも良い世の中を作るため微力を尽くす 生き残るのは、変化に対応出来る種だ ⑥幼少時代の夢:人と話せるようになる事(女性とは、20歳まで話せなかった)、スポーツの出来る色の黒い男になる事 ⑦将来実現したい事:医療者と患者さんに優しいAIホスピタルの実現。日本の病院の働き方を変える。地域医療構想の三浦半島での実現。持続可能な医療提供体制のモデルを示す。
勉強一筋の幼少時代、中学で経営を学ぶ
幼少時代は、引っ込み思案で運動音痴、勉強しか取り柄が無い様な子供でした。東京の下町・亀戸で育ち、周りの子の多くが進学や学問には興味が無いという環境下で、元小学校教師の厳格な父に躾けられて、小学4年生の頃から毎晩深夜0時まで勉強していました。父は家業を継ぎ家具商を営んでいましたが、子供には知的な職業に就いて欲しいと願っていたのですね。負ける事を許さない父で、褒められた事は1度も有りませんでした。
晴れて開成中学に入学し、目立つタイプでは有りませんでしたが、テニス部に入部し、小さな大会で3位に入賞。長距離走では学年350人中7位となり、案外運動も出来るじゃないかと自信を持つきっかけになりました。中学2年生から実家の家具商でアルバイトを始め、家具の配達・販売といった肉体労働の他、会計、投資判断、事業戦略セミナーへの参加等を通して、経営も学びました。その後の人生で生かされた事を思うと感慨深いですね。
魅力的な指導者との出会いで、外科の道を直往邁進
医師になりたいと考える様になったのは高校生の頃からです。自宅から通えて現役で合格出来そうという理由から、横浜市立大学医学部を受験しました。学費が年2万円と日本一安く、親からは幼稚園より安いと驚かれました。20万円程で手に入れた医師免許は、最高のコストパフォーマンスでしたね。大学生時代もテニス部に所属し、酒に交友と、ひたすら遊んだ思い出ばかりです。
「自分の腕で病気を治せる」という事にやり甲斐を感じ外科を専攻しましたが、それ程単純なものでは無いというのは、後から身に染みて分かりました。ポリクリと研修医時代に指導をして下さった先生が魅力的なオーベンで、その後も、教授として、当院の副院長としてお世話になりました。研修医時代には、頼れる医者になりたいという思いが人一倍強かったものの、知識もスキルも乏しく、周囲への配慮も出来ず、先輩方をさぞかし困らせた事でしょう。外科医になってからは、手術は勿論、内視鏡的逆行性胆管膵管造影(ERCP)、大腸内視鏡検査、エコー等、兎に角何でもやってみたい気持ちが先に立ち、空回りして迷惑ばかり掛けていました。
不出来だった私に、山梨医大への赴任の話が降って来たのは、医師になって7年目の事。甲府の隣の田んぼに囲まれた町で、大学の宿舎から直ぐの所に富士山が見えました。そこで出会った教授が菅原克彦先生という肝臓外科の第一人者で、肝臓を学びたいと言ったら、目を掛けて育てて下さいました。上司に恵まれ、留学までさせて頂きました。
アメリカで血液型決定遺伝子の研究
1987年から89年に米国カリフォルニア州のCity of Hope研究所のBiochemical Genetics研究室に留学しました。そこで目にしたのは、恵まれた研究環境とは裏腹の厳しい生存競争。トップの研究者達は皆、強烈な個性の持ち主でした。留学中の研究テーマは「ABO血液型を決定する遺伝子のクローニング」。塩基配列を調べる基となる蛋白の抽出の為、新鮮凍結血漿(FFP)を毎日何十リットルもカラムクロマトグラフィーにかけて濾過するのですが、購入したFFPの中にHIV陽性の血漿が含まれていて、怯えながら研究に励んでいました。努力の甲斐なく研究は成功しませんでしたが、赤血球のほんの僅かな構造の違いで、輸血を間違えれば人命に関わる訳ですし、ノーベル賞(ちょっと言い過ぎでしょうか)に近い所まで行ける位、凄いプロジェクトを任せて頂いていたのだと今は思っています。
帰国後、01年に当時の細井英雄副院長から要請を頂き、当院の外科部長として赴任致しました。臨床研修システムの整備から、救急の全応需、がん拠点病院の獲得、系列病院の分院化等、経営に関わる重要なプロジェクトを任せて頂きました。その後、再び山梨に縁があって12年に山梨県立病院に赴任し、腹腔鏡下手術や高度な肝胆膵手術の普及に務めました。
院長に就任し、経営再建の快進撃
大勢の患者さんに来て頂き充実した日々も束の間、1年後にKKR(国家公務員共済組合連合会)本部から呼び戻され、14年に院長に就任しました。妻には「家出した悪ガキが連れ戻されるみたいね」と揶揄されてしまいましたよ(笑)。それからは、院内の意識改革に取り組み、全職員に当時の経営状態を説明し救急全応需を徹底しました。患者さんを紹介して下さっていた200クリニック程を自らの足で全て回り、奔走する毎日でした。患者数・手術件数共に増え、業績は順調にV字回復し19年に9億円以上の黒字となりましたが、その矢先の新型コロナウイルスの大流行でした。最初の3カ月で5億円の赤字に転落。「夢破れたり」と絶望の淵にいた所、補助金に救われました。
コロナ禍では、通常診療とコロナ対応の両立を基本方針として、「神奈川モデル」と呼ばれる医療体制の中で、重症と中等症の部分を担っています。コロナ専用病棟を開設し、これ迄に重症患者125人を含む陽性の入院患者650人を診て来ました。横須賀市からの要請でバックヤードに中核となるPCRセンターをオープンし、2万人以上の検査を行いました。クラスターも出さずに乗り越えて来られたのは、十分な感染対策等、的確な現場対応力と迅速なガバナンスが上手く機能した為だと思います。
三浦半島モデル・AIホスピタルの構築へ
今後の目標は、地域医療構想に則った「三浦半島モデル」を完成させる事です。地域医療構想の基本は病床の機能分化と連携ですが、医療需要や医療者が減っている地域とそうでない地域では対応が異なってきます。必要な病床数を慎重に見極めながら、十分な数量の回復期病床を確保する事が最大の課題です。横須賀・三浦地域の住民の皆さんが安心して生涯を過ごせるよう、持続可能なモデルを示して行きたいと思います。
そして、1番の夢は、「AIホスピタル」の実現です。例えば、音声入力シスムを用いた電子カルテ、AIによるタスクシフト等。実際に、入院説明や術前のインフォームド・コンセント等にタブレット型ロボットを活用する事により大幅な時短を実証しました。
これまでの取り組みを評価して頂き、20年に念願だった日本経営品質賞を受賞する事が出来ました。極上の褒め言葉を頂いた心地です。現在、当院の建て替え計画が着々と進んでいます。著名な建築家の東京大学名誉教授・長澤泰先生にアドバイスを頂きました。患者さんを始め、スタッフ、市民の方々に「よかった。この病院で」と思って頂ける様、更に邁進して行きます。
インタビューを終えて
東京亀戸に突然、神童が誕生した。下町の太陽だったに違いない。そこから一直線で医師を目指した。当時のまま大人のガキ大将になったのは開成の校風か。先輩後輩を慌てさせている光景が目に浮かぶ。今、横須賀の太陽として三浦半島全体の医療を担う。夢は海原のように大きい。 (OJ)
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