社会医療法人同仁会 耳原総合病院(大阪府堺市)
理事長
耳原鳳クリニック 所長
田端 志郎/㊦
2006年4月、大腸憩室症から大出血を起こした田端は、43歳にして大腸をほぼ全摘した。
不自由を強いられる人工肛門装着
手術翌朝、ICUで目覚めると、全身の至る所に管や電極などが取り付けられ、寝返りも打てなかった。あまりの苦痛に、「全部引き抜いて、窓を突き破って飛び降りたい」衝動に襲われた。しかし、がんじがらめに拘束されていてままならず、回復を待った。
主治医が、ホルマリン漬けにした大腸の標本を見せつつ、「こんな状態で、10年もよく生活していましたね」と告げた。無数の憩室があり、炎症を繰り返した大腸壁は厚く硬くなっているようだった。かつて精神科の同僚から、「うつになる代わりに、体が悲鳴を上げているよ」と忠告された。働き方にダメ出しをされていたのに、耳を傾けなかった結果だった。「患者を慮って早期の治療を勧めても納得してもらえないことがあるが、自分も冷静な判断ができていなかった」。
手術翌日には一般病棟に移ることになった。傷跡の痛みは鋭く、点滴につながれたままだった。さらに驚いたのは、ベッドから降りて病室まで10メートルほど歩くように言われたことだった。寝たきりでは、筋肉が退化して血流も滞る。「歩かなあかんのですよ」と看護師に言われ、沽券に関わってはと必死で歩いた。病状は改善に向い、1つひとつチューブが外れていった。鼻の酸素管、経鼻胃管、心電図の電極……。循環器内科医として、日頃から「まだ心配だから、モニター着けとこうや」と言っていたが、その不快さ、外れた喜びには思いが至っていなかった。少し動くと、足、腰、肩など節々に筋肉痛を覚えることになり、早期リハビリテーションの重要性も再確認した。
歩き回れるようになると、みるみる体力が回復した。無事退院の日を迎えたが、この後、わずかに残る直腸と小腸をつなぐ手術まで、人工肛門の生活を送らなくてはならなかった。便の入ったストーマの袋は、数時間おきに交換しなくてはならない。就寝中も2回あり、においにも閉口した。看護師資格を持つ妻にこぼすと、「女性は赤ちゃんを育てている時に、誰でも経験しているのよ」と、甘さを一蹴された。
長期休暇をもらっており、日頃は行けない美術館に出かけることにした。しかし町を歩いてみると、駅やデパートなどに、ストーマの袋を交換できるような洋式トイレは少なかった。通勤に備え、洋式トイレの場所を記憶した。
一般病棟に移って3日目、病院の人工肛門の患者会の会長が見舞ってくれた。大腸がんの手術を経た人の場合、高齢者が多く、恒久的な人工肛門を付けることがほとんどだ。「人工肛門は楽でっせ。高速道路でトイレが満杯でも直接パッと出せるんや。ストーマを皮膚に貼り付けると皮膚がただれて痛いんやけど、わしはヘチマでこすっとるで」と、ユーモアたっぷりに激励してくれた。
自分と同じ40代の、和食の料理人の話も聞かせてくれた。「人工肛門を付ければ、においも心配で職を失いかねない」と、医師の説得にも大腸がんの手術を拒否していたので、会長は人工肛門装着後の生活について詳細に説明した。すると、その人は納得して手術を受け、今も料理人として仕事を続けているという。「医者は手術を受けないリスクばかりを言うが、患者が知りたいのは手術後どうなるかや。正しい知識をきちんと授け、自分で考えてもらったらええんや」。医師を続けられるか悩んでいた田端の心にも響く言葉だった。
全身状態も良くなってきたことで、7月に直腸と小腸とをつなぐための2回目の手術を受けた。人工肛門は外せたが、大腸がないために水分を吸収したり、便を保持したりできず、摘出以来、ずっと下痢の状態が続いたままだ。起床時、朝食後、通勤途中、職場到着後……数時間ごとに排泄を繰り返さなくてはならない。粗相に備えて職場に下着を用意し、履き替えることもある。働き盛りの身に、何とも情けないと落胆することもあった。
転身をプラスに救急医から法人トップに
それでも、大出血から半年後の10月、医師として再び職場に復帰する日、朝日を浴びた喜びは格別だった。「通勤できる」という当たり前のことは、実はとても幸せなことだった。もっとも、循環器内科は離れざるを得なかった。カテーテル治療にかかれば長時間立ちっぱなしで、手が離せないなどの支障があった。総合診療を希望したが、院長からは救急科に移るように命じられた。一刻を争う過酷な職場は、病み上がりの自分には厳し過ぎると感じた。しかし、救急患者には複数のスタッフで対応し、9時から17時までの交代制の職場でもあることから、身体的負担は軽くなった。排泄のために席を外すこともできた。幅広い臨床能力を発揮できる医師になるという希望にも合致していた。
当初は戸惑いもあった。蜂に刺された患者に遭遇しても、重症度評価の方法も治療方法も思いつかない。3年目の研修医に尋ねると、アナフィラキシーショックに陥るリスクや、ステロイド剤の使い方、患部の見方などについて、細かく手ほどきをしてくれた。もっと勉強するようにと救急の教科書を渡され、田端は貪欲に知識を吸収した。
救急部門を任された田端は、同時に副院長に昇格した。当時、救急のたらい回しが社会的問題になっていた頃で、「断らない救急」という理念を掲げた。救急隊と勉強会を重ね、堺市の会議にも参加した。理念は浸透して、救急隊の認知度が高まり、地域の開業医から感謝された。「医療の質の向上」も担当し、病院機能評価の認定を受けている。「転身は自分に大きなプラスやった」。
私生活でも嬉しい出来事があった。12年ぶりに3人目の子、次女が誕生したのだ。結婚直後に上の2人の子が誕生した頃は、育児も家事も妻に任せっきりだった。今回はオムツを替え、背負って寝かし付けるなど、育児に奮闘した。
大病で親不孝をかけたが、高齢の両親は病室に足を運んで励ましてくれた。そして妻は毎日病室を訪れ、世話を焼いてくれた。心底、家族のありがたみを実感した。「人ってこんなに優しくできるんやな」。
20年には法人の理事長となり、舵取りを任される傍ら、傘下の耳原鳳クリニックの所長に就任した。各部門を束ねなくてはならない中で、コロナ禍にも見舞われて一時は患者も激減し、救急以上にハードな日々だった。それでも経費圧縮に努めるなど、ピンチをチャンスに変えた。耳原総合病院は、地域で住民たちが募金を積み重ねて誕生した経緯がある。今も続く友の会組織を支える地域住民の期待に応え、差額ベッド代も取らず、無料・低額診療も続けている。
「トータルな健康からは1ピース欠けてしまったが、人生の後半戦はますます充実している」。
4月に入職した新人たちに今年もこう伝えた。「成長を焦らず、長い人生ゆっくりと成長してください。患者さんから大いに学んでください」と。
【聞き手・構成】ジャーナリスト:塚﨑 朝子
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