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第59回「医師が患者になって見えた事」右手首の滑膜肉腫が判明し上腕で切断

第59回「医師が患者になって見えた事」右手首の滑膜肉腫が判明し上腕で切断

呉市国民健康保険安浦診療所(広島県呉市)
所長
井上 林太郎/㊤

1961年広島県生まれ。92年広島大学医学部卒業。同循環器内科に入局し、マツダ病院などに勤務。2005年から医療法人社団葵会に移り、2010年から現職。

 右手か、それとも命か——循環器内科医である井上は、42歳で右手首に稀少がんの滑膜肉腫を発症、上腕で切断することを決断した。再発の影に脅えながらも、生かされた命を地域住民を支える医療へと捧げている。

ゴルフ直後から右手首が腫れる

 1961年、井上は広島市で生まれた。父は自宅で、昔ながらの内科と小児科の診療所を開業していた。長男の井上は、医師になって欲しいとの期待を込めて「林太郎」という名を与えられた。作家にして陸軍軍医総監まで務めた森鷗外の本名だ。大正末期生まれの父は、海軍兵学校への進学を希望していたが、祖母の願いで断念したこともあり、その名に思い入れがあったようだ。

 子ども時代の井上は、野口英世や北里柴三郎の伝記などに触れ、医師になることを夢見ており、勉強も苦手ではなかった。高校時代に「名前負け」と冷やかされたこともあり、紆余曲折を経た末、92年広島大学の医学部を卒業した。研究者に憧れて生化学の大学院で博士号を得たが、研究の才に見切りを付けて臨床医に方向転換した。生化学ともつながりの深い循環器内科に入局したのは、命に直結する診療科であるのに加え、普及し始めていたカテーテル治療などを学べることも魅力だったからだ。

 医局人事で関連病院を転々とし、2002年からは、地元の有力企業の傘下にあるマツダ病院(広島市)に勤務した。臨床経験はまだ10年に満たず、多様な業務をこなしながら、最新のデバイスであるステントなどを用いたカテーテル治療の腕も磨いた。

 激務だったが体調に異変はなく、休みの日には、小学生と幼稚園児だった子どもたちとの時間を楽しみ、医師になって始めたゴルフの練習にも通った。コースに出られるのは年に2〜3回しかないが、コンペを楽しみにしていた。

 03年12月21日、職場の忘年ゴルフコンペがあった。その翌日から右手首の掌側が腫れてきた。ゴルフで傷めたのだろうかと思っていたが、終始痛みはなかった。同僚の整形外科医に相談すると、血腫かも知れないから一度MRIを撮るようにと助言された。しかし年末年始に突入し、診療体制が手薄となり、下の医師は大忙しだった。井上の受け持ち入院患者数も20人を超え、自分が検査を受けている余裕はなかった。

 年が明け1月後半になると、ますます腫れが大きくなり心中穏やかではなかった。当時職場では電子カルテへの移行期にあった。パソコンのキーボードを叩いたり、ペンを持ったりするのにも違和感を覚えるようになっていた。当月のレセプト処理を終え、一段落したところで、懇意にしていた放射線科医に相談し、医局会を抜けて検査しようとの算段になった。

 2月6日午後6時過ぎ、人気のないMRI検査室に向かった。放射線科医は、井上の右手の画像を見るや、即座に「軟部腫瘍のようだから、造影検査を追加したい」と告げた。軟部腫瘍は、脂肪組織、筋組織、線維性組織、末梢神経、血管など間葉系(非上皮性)組織など、内臓を支持するあらゆる組織から発生する腫瘍の総称で、悪性(がん)と良性がある。

 造影画像によって、悪性かもしれないという疑いは確信へと変わりつつあった。すぐに県立広島病院に紹介状を書いてもらった。整形外科部長だった杉田孝はかつて広島大で助教授を務めており、井上も面識があった。軟部腫瘍は、10万人に約3人という希少がんだ。最短で第一人者の治療を受けたいと2月12日午前の診療を終え、午後1時に受診した。X線検査に続き、局所麻酔で切開して組織を採取する生検を受けることになった。臨床放射線技師や看護師の何げない言葉が冷たく響いた。そして迅速病理診断の結果、杉田から、非上皮細胞から発生したサルコーマ(悪性の滑膜肉腫)でステージはⅡBと告げられた。

 悪い予感は的中し、予後が良くないことも承知していた。乱れる頭で、あれこれと原因に思いを巡らした。身内はがん家系ではなさそうだ。大学院時代の実験中に噛まれたマウスから感染したか、カテーテル治療の際に浴びる放射線か、幼少時から海水浴で紫外線を浴びたせいか……。原因を特定できるものではなく、2人に1人ががんになるのだからと、割り切るよりなかった。

術前化学療法でも腫瘍は縮小せず

 怒りと悲しみが交互に押し寄せ、沈鬱な気分になり、翌日から出勤しなくなった。今省みると大人げない態度だったが、仕事に向かおうという気力が湧かなかった。大学医局からは早速、“後釜”の循環器内科医が派遣されており、診療に穴が開くことはなかった。ゆっくり治療に専念しろという思いやりも込められていたはずだが、それが逆に落ち込みを加速させた。

 生検を受けた後、書店に通って軟部腫瘍に関する専門書を手に入れ、論文を読みあさった。5年生存率は30〜50%、10年生存率が10〜30%と言う。「悪いほうに悪いほうに考えるのが医師の習性だ。自分にとって生死は1か0だが、生存率の数字を信じるしかない」。

 薬剤師の妻には無論のこと、姉や弟や親戚にもがんになったことを伝えた。実家では、母は井上に診療所を継いでもらいたがっていたが、父は「大きな病院で研鑽を積んで欲しい」とそれを拒んで、既に閉院していた。井上のがんが判明した時、父は2度目の脳梗塞発作の直後で、息子の病状を理解できないことはむしろ幸いに思えた。母は淡々と事実を受け入れた。

 手の切断だけは避けて欲しいと、代替療法などを勧めてくれる親族もいた。

 しかし、井上は杉田に全幅の信頼を寄せ、迷わず標準治療を受けることに決めていた。2月末に入院し、まず、術前の化学療法を開始した。イホマイドを5日間続けて点滴で投与する。腫瘍が縮小すれば、腫瘍部分だけを切除して、右上腕を温存できる可能性があった。脱毛で風貌が変化したが、子どもたちは井上が家にいることを無邪気に喜んだ。

 それから再度の入院と、アドリアマイシンとシクロホスファミドの2剤を併用した化学療法が待ち受けていた。1クール目で縮小したように見えたが、耐性が生じたのか、2クール目はむしろ腫瘍が大きくなった。

 「家族のためにも、生きなくては。もはや右腕  の切断しかない」。セカンドオピニオンを受けることもせず、自分が最善と思う切断手術へと突き進んだ。目視できない微小な転移もあり得たし、右手を上腕で切断すればリスクは最小限にできるはずだと、石橋を叩いて渡る覚悟だった。「内科医だし、右手がなくなってもどうにか医師として仕事はできるだろう」。手術日は、6月22日 と決まった。(敬称略)


〈聞き手・構成〉ジャーナリスト:塚﨑 朝子

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