消化器外科医
療養型病院勤務
片山 隆市/㊦
東京慈恵会医科大学を卒業した1980年、ヒマラヤ登山中に偶然見つかった胃がんを切除した片山は、外科医として復帰。癌研病院大塚(当時)で、執刀した世界的名医から薫陶を受けるなど、腕を磨いた。しかし、その後の人生で、心身を苛む病に立て続けに見舞われることになる。
双極性障害を統合失調症と誤診
大学の外科医局の人事で転々とした後、片山は母校に戻った。役割も大きくなり、病棟医長を任された。通常、医長の任期は1年だが、片山は2年務めることになった。大腸グループの副責任者で、外来診療や手術をしながら、病棟運営の要としての雑務もこなした。責任範囲は広く、ハードワークから疲労が募った。幸い、手術した胃を含め内臓には大きな問題はなかったが、心が破綻していた。気分の落ち込みは激しく、「こんなに苦しいのであれば、いっそ死んでしまいたい」と考えた。専門家の診療を受けることなく、うつうつとしたままだったが、医長の任を終えると、気分は著しく軽快していった。
3カ月ほどして埼玉県の病院に派遣された頃は、自信がみなぎっており、幸福感に浸っていたが、実はそれが度を超していたようだ。明らかに躁状態だった。大言壮語から周囲ともめてしまい、翌年4月には医局を辞めた。
家族も心配し、近隣の医療機関を受診したが診断はつかず、しばらくして都内の大病院の精神科を受診すると、思いがけず「統合失調症」という診断名を告げられた。のみならず、その場で身体を拘束され、手錠をかけられ精神科の専門病院に移送された。自分の身に起こっていることは悪夢そのものだった。しかし、その病院の専門医は入院の必要性を否定し、すぐに解放された。
拘束された恐怖は強いトラウマになった。一方で、片山には病識がなく、現場で外科医を続けていた。しかし、その後1年間ほどは躁状態にあり、人間関係がうまくいかずにいた。都心を離れて福島県の病院に移ると、今度はメスを握る気力もないほどの落ち込みが襲って、死を願うようになった。今思い返しても、それは人生のどん底だった。集中力は続かず、漢字が浮かんでこなくなったり、簡単な四則演算も行えなくなったりした。離婚が成立して単身だったことから、高齢の父が案じて毎日電話をかけてきた。懇意にしている埼玉県の寺の住職夫人は、こたつと布団を持参して慰問してくれた。気遣いが身に染みた。
しかし、数年続いたうつ状態を抜けると、再度躁状態が巡ってきた。近所の人とトラブルを起こし、ついに東京に連れ戻された。大病院で、再び「統合失調症」との診断を受け、短期・長期合わせて4度の医療保護入院を繰り返した。
もはや、50代末になっていたが、健康診断の職を見つけ、何とか医師として仕事を続けたが、気分の波は繰り返していた。ある日うつ状態で飲酒の度が過ぎ、急激に断酒をしたため、離脱症状が起こり病院に搬送された。そこで精神科医の診断を受け、初めて片山に「双極性障害(躁うつ病)」の診断が下された。それは、自分でも腑に落ちるものだった。昔から付き合いのある親しい医師の仲間は、「統合失調症」の診断に首をひねっていたが、躁状態の虚言が妄想と見誤られていたのだろうと納得できた。
最初の精神科受診から数えて16年余り、誤診を繰り返した挙げ句、効かない薬を飲み続けてきた。正しい診断が付いた時には、還暦を過ぎていたが、それから双極性障害の薬を飲み続けることで、心は健康状態を保っている。
治療を受けながらでも人生を全うできる
今日に至るまで、がんこそ再発することはないが、たびたび患者となる経験を繰り返した。
44歳の頃、伊豆を旅行している時に腹部に激痛が走り、救急病院に運ばれた。黄疸が出ていて、総胆管結石と診断された。胆嚢にできる結石は胃がん切除の後遺症と言われ、予防的に胆嚢を切除することもあるが、片山の場合は胆嚢を残し、石が貯まっていることは認識していた。旅先の救急病院で内科医師に緊急で胆嚢ドレナージ術を施してもらい、母校で胆嚢摘出手術を受けた。
50代後半になると、時折、脳に血が回らずふらふらになって歩けなくなり、全身の脱力に襲われることがあった。ひどい時には階段から落ちたり、10分歩いては休んだりという状況が続いた。3年ほどして受診した神経内科で、椎骨脳底動脈狭窄による循環不全と診断された。脳に行く4本の血管(内頸動脈系と椎骨動脈系)のうち、後者の血流量が一時的に減少して生じる一過性虚血発作が起きると推定された。こちらは血流を改善する薬を服薬しており、症状は収まっている。
胃切除の後遺症では、骨代謝が変化したことで骨粗鬆症も起こってきた。カルシウムが吸収されにくくなるだけでなく、脂溶性のビタミンDの吸収も落ちてくるためだ。X線を撮ってみたところ、胸椎が3カ所も圧迫骨折を起こしていることが分かった。こちらは、68歳から骨量を増やして骨折しにくくする薬を週2回自己注射している。胃がん手術から40年以上、改めて、外科医時代には自分が無関心だった合併症が数多くあることを思い知らされた。
骨粗鬆症の治療経過の中で、胸椎前縦靱帯骨化症も見つかってきた。これは脊髄の前方を縦に走っている靱帯が骨化する病気だ。後縦靱帯の骨化の場合は脊髄が圧迫されて神経症状が現れる難病だが、前縦靱帯であり特別な治療はせずに済んでいる。しかし、円背が進行して身長は5cm 短縮した。
60代半ばになると加齢と共に増加する前立腺肥大症も起こってきて、こちらも服薬を続けている。がんから生還して40年余り、改めて「治療が進んでいるお蔭で、病気を抱えながらも生を全うできる」と実感できる。
病を多く経験したこと、そして一つ間違えば死と直面する登山にのめり込んだことは、片山を強くした。「人間、いつどこで死ぬか分からない。最初のがんで、死ぬのが怖くなくなった。今の人生をオマケと思い、とことん楽しみたい」と、診療にも、旅行やカメラ、美術鑑賞、水墨画など多彩な趣味にも打ち込んでいる。
精神科では誤診を受けて長くつらい経験もして、当初は医師をうらむ気持ちもなかったわけではない。しかし、自分自身医師として診療を行うに際しての判断が常に正しかったと問われれば、絶対的にそうとは言い切れないと考える。
今も診療を続け、時々患者の立場になりながら思うことは、慈恵医大の創始者である高木兼寛の「病を診ずして病人を診よ」という理念を実践することの難しさだ。それでもなお、心に刻まれたその理想を追い求めている。(敬称略)
(聞き手・構成)ジャーナリスト:塚﨑朝子
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