早稲田大学理工学部で人工心臓の研究に関わった後、大阪大学医学部に進んで心臓外科医に転身。外科医として腕を磨きながらも、医系技官として厚生労働省に入省した。同省では健康医療分野のイノベーション政策に従事したが、その後、退官して、内閣官房補佐官、医療系シンクタンクの理事、国立がん研究センターの政策室長等を歴任してきた。更にそこから地域医療の現場に転身し、地域に根付いたクリニックを開設して3年半になる。オンライン診療にも積極的で、自ら開発したセルフメディケーションと医療を繋ぐアプリは広く使われるようになっているという。今どんな医療の未来が見えているのか、“医療イノベーター”と呼ばれる宮田俊男氏に話を聞いた。
——厚労省の官僚経験や、医師として医療現場も知る立場から、国のコロナ対策をどう評価しますか。
宮田 いろいろな事が激変する大変な時代だと思います。今から振り返ってみれば、国の新型コロナに対する医療政策には、もう少しうまく出来たのではないかという部分も当然あります。当院も都会における地域医療の最前線として診療に当たっていたわけですが、かかりつけの患者さんが発症した時に、何時間も入院出来ないというような事も経験しました。
——日本の医療政策の課題は見えてきましたか。
宮田 国産ワクチンの開発については、もっとやれたのではないかという思いがあります。せっかく医薬品開発の歴史や実績があるのに、それを活かし切れませんでした。もっと国が力を入れるべきだったと思います。安倍政権が発足した時には、日本版NIH(米国立衛生研究所)を作るという話がありました。それをやってみて、成果がどうだったか見てみたかったという思いはあります。
——コロナ禍によるクリニックへの影響は?
宮田 このクリニックは元々、地元の人がいつでも立ち寄れるというコンセプトでやってきました。床も絨毯でしたし、子供も診るので待合室にはおもちゃがたくさんあったのですが、そういうのを全部やめる事にしました。床は掃除しやすい材質に替えましたし、おもちゃも片付けました。それから、少し移行期間は設けましたが、思い切って完全予約制にしました。これに関しては心配もありましたが、地域の人々の大部分には喜ばれていまして、やはりニーズが大きく変化していたのだと思います。患者さん1人当たり10分くらいの時間を確保して予約を入れているので、十分にお話出来ますし、待合室が混まないので安心されているようです。思い切って変えた事で、地域のニーズにいち早く応えられたと思っています。
——テントで発熱外来を行ったそうですね。
宮田 厚労省の通達を調べて、すぐにテントを買って始めました。当初、クリニックレベルで公費によるPCR検査を行っているところは少なかったと思いますが、熱のある患者さんにはそうやって対応していました。地域の多くの方が、うちでPCR検査を受けています。
——クリニック開設の経緯を教えてください。
宮田 厚労省時代は、税と社会保障の一体改革や未承認薬の早期承認といった政策に深く関わっていました。そんな十数年前の事ですが、がんの患者会で会長をされていた轟哲也さん(故人)という方が、都立戸山高校と早稲田大学理工学部機械工学科の両方で私の先輩なのですが、その方に言われたんですね。税と社会保障の一体改革も重要だし、薬の早期承認も重要だけど、患者の多くは自分がどういう治療を受けるべきなのか分からずに困っている。それでインターネットで怪しげな情報につかまってしまったりしている。そういう部分を解決してほしいと言われた時、かかりつけ医の役割にまだまだ不十分な点があるのではないかと思いました。これだけICT化が進んでいるわけですから、昔ながらの赤ひげ的医療も大事にしながら、そこに新しい流れを作っていかなければ、という事を考えていました。私自身は何か課題があった時には、自分自身がキャリアを変えて取り組むという事をずっとやってきたのですが、たまたま私が育ってきた東京都渋谷区で、50年続いた診療所が跡継ぎがいないために閉院するという話があったのです。そこの娘さんが私の幼馴染だったので相談があり、場所は少し変わりましたが、みいクリニック代々木として再生させる事にしました。新たに開院したのは2016年11月です。
——今年4月から院長が変わったのですね。
宮田 経営が安定してきたので、2つ目、3つ目の事も考えていまして、ここは地域医療の経験があり在宅医療もやってきた総合診療医の先生に院長をやってもらう事にしました。親が開業医ならそれを引き継げばいいですが、そうでない場合、経験や実力があっても開業するのは経営面での心配があります。そこで、跡継ぎのない診療所と地盤を、開業を目指す若い先生とマッチングさせていくような事をしてみたいと考えています。
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