東加古川病院(兵庫県加古川市)精神科医
アウルクリニック(大阪市)
院長 片上 徹也/㊤
医師となり、2年間に及ぶ初期臨床研修を終え、精神科医としての修行を積もうとしていた直前、27歳の片上をくも膜下出血が襲った。
それでも、病院勤務の傍らで理想のクリニックを開く夢も諦めることなく、前に進み続けた。
医学部に入るのに1年浪人したが、順風満帆で、活気に満ちあふれた青春時代を過ごした。
2009年に奈良県立医科大学を卒業し、初期臨床研修は、大阪府済生会野江病院(大阪市)で行った。精神科医志望だが、外科系、内科系と満遍なく回る多忙な2年間が、正に終わろうとしていた。
片上の趣味は、中学時代に始めたテニス。大学に入ると、夏はサーフィンにものめり込んだ。本も手当たり次第読みあさっていた。エネルギッシュで社交的で人付き合いも良く、「1秒も無駄にしたくないと思っていた」。
初期臨床研究の終了目前に救急搬送
2011年3月27日の深夜、予備校時代を共に過ごし循環器内科に進む医師の家で、サーフィンのサークルの女性の友達2人を招き、4人で鍋を囲んでいた。
前の晩、初期研修の最後の夜勤当直を務め、その後の勤務をこなした後の夜会だった。
あと数日したら、関西で最も古い精神科病院で、専門的な研修をスタートさせる。温めていた開業という夢もあり、青写真の通りに着々と計画も進めていた。
行く手にはまっすぐな地平が開け、開放感と高揚感に満ちていた。
飲酒は大好きだが、その日はビールを飲み始めたところで、小さな異変を感じた。頭が重く、軽い頭痛がした。
「もっと飲めば、治るかもしらん」。片上はためらうことなく、むしろピッチを上げて、ビールを飲み干した——。
直後、突然左半身から倒れ込むと、そのまま意識を失った。
女性たちは悲鳴を上げ、医師の友人は気道を確保することに懸命だった。
約2分間、いびきをかいて横たわった後、何とか意識が戻り、友人は胸をなでおろしていた。 彼の診立てでは、迷走神経の過緊張によって一過性の血圧低下を起こしたのではないかということであり、「大丈夫や」と請け合ってくれた。
しかし、片上自身は、自分がただならない状態にあると悟った。意識消失中、両目はギョロッと左側を向いたままだったという。それは、共同偏視の所見に違いない。頭痛は収まるどころか、鈍く増幅していた。
これだけの状況証拠が揃えば、脳出血だと確信するに十分だった。「迷走神経反射じゃない。絶対に出血しているから、救急車を呼んでくれ」と叫んだ。
救急車で搬送される間も、「CT撮って、CT撮って」と繰り返していた。実は前日の当直中、脳出血の患者に遭遇しており、事の深刻さが身に迫ってきた。その患者には懸命の治療が施されたが、救命できなかった。自分も死を覚悟した。
最寄りの大阪の総合病院で最初に診てくれた医師は、片上と同年配のようだった。片上が医師と知ると、「ビンゴや、先生の診断は合ってる。くも膜下出血を起こしてる」と告げた。
研修で蓄えた知識が役に立ち、友人たちの目の前で倒れたことも幸運だった。しかし、本当にくも膜下出血であれば、一刻も早い手術が必要だった。深夜1時を回っていたが、片上は、やはり医師で、関西屈指の急性期病院である神戸市立医療センター中央市民病院に勤める父にSOSを出した。
13時間に及ぶ手術で一命を取り留める
片上は1984年、共に医師である両親の元に神戸で生まれた。父は腫瘍内科医で、母は公衆衛生を専門として保健所に勤務していた。両親のどちらからも、医師になるように言われたことはなかった。
米国で研究をしていた父に連れ立って家族で渡米し、ボストンで1年を過ごした。まだ小学校に上がる前のこと、ラボにいる父の姿がとても格好良く見え、漠然と医師を目指すようになった。中学校から中高一貫の進学校である六甲学院に進んだ。
負けず嫌いの性格だったこともあり、難関の医学部を避け、一時は建築の道に進もうとも考えた。
しかし、結局浪人する羽目になり、迷いが吹っ切れた。その頃に出会ったのが、精神科医である和田秀樹が執筆した『受験は要領』という、受験のバイブル書だった。その教え通りテクニックを取得し、翌春、奈良県立医科大学の合格を勝ち取った。
それだけでなく、医師として両親とは違う道、精神科を目指そうという確固たる目標が芽生えてきた。
さて、深夜に息子の電話で起こされた片上の父は、「何をふざけとるんや」と一蹴しかけたが、すぐに息子の一大事を察知した。
父は片上を診た大阪の当直医と話し、同僚である坂井信幸の執刀を仰ぐことになった。日本でも指折りの脳神経外科医であり、片上とも顔見知りで、安心して命を委ねられる。
再び救急車で神戸に向かうと、病院には両親も待ち受けていた。
くも膜下出血は、動脈瘤の破裂により引き起こされたものだった。治療は、頭蓋骨を開いて、破裂した脳動脈瘤の根本に専用のクリップをかけて閉鎖するものだ。並行して、脳動脈瘤内の出血を取り除いて、減圧しなければならない。言語障害、麻痺……手術に伴ういくつものリスクが、脳裏に去来した。
全身麻酔下の手術は、実に13時間に及んだ。大量出血こそ免れたが、血流を確保するため、一度かけたクリップをかけ直すことになった。
麻酔が切れて目覚めたのは、夕方近かった。搬送しても3分の1は絶命するという脳動脈瘤破裂で、命を取り留めたことに大きく安堵した。しかし、すぐに左半身が動かせないことに気付き、愕然とした。
程なくして、執刀した坂井が現れた。「ごめんな。麻痺が残っちゃったよ」。片上はうまく言葉を発せず、会話は少なかった。血流が途絶えた脳細胞の6分の1は壊死しており、それが左半身麻痺を招いていた。
第一人者の手になる結果であり、割り切るよりない。脳動脈瘤は、喫煙や大量飲酒、高血圧や家族歴などがリスクであるが、片上はどれも該当せず、先天的に動脈瘤ができやすかったとされる。それも運命だった。「俺は終わったな。医師としてはおろか、このまま寝たきりかもしらん」。
父も母も、厳然と事実を受け止めていた。片上は両親を前にしても、言葉をつなげられず、表情も作れないまま、力なく微笑んだ。
持ち前の明るさも活力もすべで失われた中、母にだけは弱音を吐けた。母は「あんたは運の良い子やから大丈夫や」と笑みを返してくれた。母はいつも優しいが、医師でありながら、かける言葉に迷ったのだろう。片上は「大丈夫やって、どんな根拠やねん」と心の中で突っ込みを入れた。
そこから、復帰のための長い闘いが始まった。(敬称略)
〈聞き手・構成〉 塚﨑朝子
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