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未来の会

第7回 私と医療 ゲスト 幕内雅敏

第7回 私と医療 ゲスト 幕内雅敏
GUEST DATA:幕内雅敏(まくうち・まさとし)①生年月日:1946年8月12日 ②出身地:東京  ③感動した本:「老いのゆくえ」(黒井千次)、「患者さんに伝えたい医師の本心」(髙本眞一) ④恩師:江藤先生(日比谷高校担任) ⑤好きな言葉:Do my best ⑥幼少時代の夢:オヤジより出来る外科医になる事! ⑦将来実現したい事:もう遅い気がします
幼少の頃は?

 外科医だった父精一、母芳子の次男として昭和21年8月12日、東京都目黒区柿の木坂に生まれました。5人家族で父は外科医、母は主婦、そして兄と弟です。そして母方の祖母が病弱な母の面倒を看ていました。

 両親の教育は結構厳しかったですね。父親は元気な軍国の父で、自分と同じように子供を3人とも外科医にしたいと考えていたからでしょう。祖母は父よりも元気で、“しつけ”に厳しく、男の子3人兄弟をビシバシと“彼女の倫理観で”厳しく育て上げました。そのお陰で3人とも無事に医者になれました。両親は喜んでくれましたね。

 その後、田園調布に引っ越しました。田園調布の街並みは春の芽吹き、秋の黄葉(銀杏)と子供心にも美しかったのをよく覚えています。当時に流行っていた遊びを兄弟たちと普通に楽しんでいました。しかし、勉強は兄弟の中では一番出来が悪かったようです。小・中学校は東京学芸大学附属世田谷小・中学校です。中庭に出るとシンボルの藤棚がある、のんびりとした学校でした。病弱だった私が段々と元気になっていった時期でした。

 東大医学部が志望校でしたので、高校は東大合格数ナンバーワンだった都立日比谷高校を受験させられました。クラスの半分が東大に行く感じでしたが、ずっと自由な校風の高校生活を満喫していました。本格的な受験勉強は3年生後半からです。負けず嫌いな自分としては猛烈に勉強をしたつもりでしたが、不合格でした。翌年に無事に東大理三に合格しました。

肝臓外科医を目指す

 東大では大坪修先生に血液透析のシャントの作り方や人工透析を学びました。

 人工透析の知識や技術は卒業後、大いに役立ちました。卒業後は第二外科医局に入り、当時、肝臓外科の手術は発展途上にあったのですが、困難のある道に挑戦する意味で肝臓外科医を選びました。その後、都立大塚病院に出向き、故・室井龍夫先生から超音波の手解きを受けました。この出会いは自分の医師人生を変える事になったと思っています。超音波診断はX線を用いる放射線診断とは全く異なり、生体に無害で、各種腫瘍の診断には最も適した診断法でした。

 その延長線上で術中超音波も行う事になり、術中超音波の助けなしに為し得ない系統的亜区域切除や下右肝静脈温存手術を考案しました。安全性だけでなく術後の生存率向上に大きく貢献したこの業績等が認められて1989年に米国超音波医学会(AIUM)の名誉会員に推挙されました。43歳の若さでしたので世界でも話題になりました。その後の生体肝移植でも術中超音波は必須で、今、振り返ると私の医療は超音波の外科的応用でと言われましょう。

 1979年に長谷川博先生の「一緒に手術をしないか」の一言で国立がんセンターに移りました。その3年前に日本外科学会で長谷川博先生が発表された「肝静脈沿いに肝実質を遮断する手技」がとても印象的だったので移る事を即決しました。肝臓外科の道の始まりです。東大時代は年間300件ほどのオペをしていました。

 当時は無遮断のままオペをしていたので大量の出血がありましたが、門脈流域がうっ血しないように肝臓の片側だけを間欠的に遮断すると出血量が半分になりました。がんセンターで本格的に術中超音波と取り組みました。その過程で発見した門脈腫瘍栓や肝内移転の概念を発表しました。

 1989年に42歳で信州大学の外科教授に就任しました。反対する声も多くありましたが、チーム医療で肝移植を始めたいと考えていました。この年、島根医科大(現・島根大学医学部)の永末直文先生が日本初の生体肝移植を行いました。手術も論文も同じ内容だっただけに、これは私としてはショックでしたね。

 翌年の1990年に生体肝移植を始め、1993年に世界初となる成人間の生体肝移植を成功させました。これは医学的にも大きな進歩でした。成人では小さなグラフトが移植されますので、移植後容積が2〜4倍まで増加します。このグラフトの容積と形の変化に対応するための様々な肝静脈再建法を発表しました。その後、この手法は世界に広がりました。

「幕内基準の誕生」の経緯は?

 肝臓手術は非常に死亡率が高かく、切除出来る許容量も患者さんによって違いがあり手術手技が確立していませんでした。そこでICGテストを行い、切除量の目安をまとめました。この基準が「幕内基準」と呼ばれ、現在でも世界中で用いられています。

 成人間の生体肝移植や「幕内基準」のニュースが世界に流れると海外から手術の要請が多く舞い込むようになりました。海外で行う手術も「手術に言葉はいらない。心で会話するから」と考えていました。世界最古の大学と言われるイタリア・ボローニャ大学では高山忠利君(日本大学教授)と一緒にオペをして来ました。彼は優秀な外科医で信州大学の生体肝移植でも一緒に手術をしています。

 私のモットーは「365日、24時間、医師であれ」です。ずっと実践して来ました。海外に出張していても同じです。オペを終えてホテルに戻っても日本からのFAXに返事をしているうちに朝になる。

 過去に行ったオペの記録も残し、いつも見直しています。また、日進月歩の医学の世界では、最新の論文のチェックは必須です。論文を書く事も必須です。論文の制作作業は自己の問題点を見つめ直し、新しい知見を生む。素晴らしい手術を考案した場合には、その論文により世界中の患者がその恩恵を受ける事が可能になる。これが医師の責務であり英語で論文を書く理由です。

 今、自分自身を振り返ると、80年代が学問的にはジャンボ機くらい高い空を飛んでいた。徐々に高度は下がっていますが、今でも外科医として現役です。

 「メスを入れる」と言うフレーズがありますが、私はそれと同じ事をやっているのです。外科医という職業自体が負う宿命かもしれません。

 後輩へのアドバイスですか。英語の論文を書きなさいです。また、適性を見極めろと。医療分野は幅が広いのです。

インタビューを終えて

眼光の鋭さは変わらないが、優しさが増えていた。自分の患者に全身全霊で向き合う姿勢は立派の一語だ。生体移植を実現するために信州大学に出た。その先見性も見事だ。外科医でありながらも、経営指数も把握する。また、医師の技術料を認めるべきとの言葉は大賛成だ。患者が医師を選ぶ際には指名料を支払う。指名料はどの世界にもある。医療界に切磋琢磨が生じる。(OJ)


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