官邸のしたたかさに専門家との間にしこりを残す
政府は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止のために発令していた緊急事態宣言を5月25日に解除した。4月7日から最長49日間にわたった緊急事態宣言だが、政府は外出自粛などによって実体経済への影響が顕著になり始めると最後は「解除ありき」の姿勢に転じた。
国内の感染者は3月中旬までは50人前後で推移していたが、末になると200人を超えだした。コメディアンの志村けんさんの陽性が確認され、29日に死亡したと報道されると、国民に衝撃を与えるとともに、この感染症の恐ろしさを改めて印象付けた。それでも感染は収まらず、4月初旬は300人を超え、東京だけで1日100人超となる等、感染は拡大し続けた。
首相官邸では連日、安倍晋三首相、菅義偉・官房長官、西村康稔・経済再生担当相、加藤勝信・厚生労働相、今井尚哉・首相補佐官らが集まった連絡会議が開かれており、こうした感染状況が逐次報告され、今後出される政府の対策・方針を確認していた。この場には官僚も同席しており、厚労省の鈴木康裕・医務技監、内閣官房からは樽見英樹・新型コロナウイルス感染症対策推進室長、外務省の秋葉剛男・外務事務次官らも同席している。
安倍首相が緊急事態宣言の発令を決断したのは4月7日の直前で、菅官房長官や西村経済再生担当相らと協議した結果だ。政府専門家会議のメンバーも、水面下で緊急事態宣言の必要性について政府に伝達しており時間の問題だったという。複数の政府関係者らによると、安倍首相は4月4〜5日頃に決断したとみられ、「東京で1日の感染者が100人を超えだしたため、これ以上の感染拡大を防ぐために宣言発令を決断した」という。
GWの観光阻止で対象を全国に拡大
4月7日の時点で緊急事態宣言の対象となったのは、東京、埼玉、千葉、神奈川、大阪、兵庫、福岡の7都府県で、期間は5月6日までの1カ月だった。当初は福岡が対象となる予定はなかったが、県内で急速に感染が広がり始め、医療崩壊の可能性があり、小川洋・福岡県知事が要望したのが決め手だった。
その後も感染は一進一退を続け、特に愛知県や北海道では感染拡大が続いたため、4月16日には対象を全都道府県に拡大した。感染対策を重点的に行う「特定警戒都道府県」という区分には、先に指定した7都府県に加え、北海道、茨城、石川、愛知、岐阜、京都の6道府県を追加し、残りの34県は特定警戒よりも対策が厳格ではない「特定都道府県」に定めた。政府関係者は「5月の大型連休に全国各地に観光しないようにするため、全都道府県に対象を拡大した」と明かす。
全国拡大した理由については別の見方もあり、それは政局的なものだった。政府は当初、減収世帯を中心に30万円の現金給付を実施する予定だったが、「給付の対象が分かりにくく、現金をもらえる世帯が少ないのではないか」と与党内から不満が噴出し、全世帯に一律の10万円給付に閣議決定をやり直した異例の経緯がある。この理屈付けに全国拡大を利用したのではないか、との話もある。
緊急事態宣言は、人と人との接触を強制的に断ち切る効果がある反面、自治体が休業要請を行ったため経済活動には負の側面があった。こうした影響による倒産の数は4月頃から出始め、民間調査会社の調査によれば、6月8日時点で227社に上るという。ホテルや旅館が最も多く40社、居酒屋やレストラン等の飲食店が30社だ。解雇や雇い止めは6月4日時点で2万540人で、5月に入ってから急増している。5月21日に1万人を超えてから、2週間で倍増している。特に景気の影響を受けやすい派遣社員や契約社員等の非正規雇用が多い。
政府の雇用統計にも影響が現れており、4月の完全失業率は前月から0・1ポイント上昇して2・6%と、2カ月連続で前月を上回った。2017年12月以来の水準で、じりじりと上がっている。
有効求人倍率は0・07ポイント下がり、1・32倍と4カ月連続で低下し、16年3月以来の低水準だ。営業自粛などによる休業者は597万人に上り、1人当たりの現金給与総額も残業時間の減少に伴って27万5022円と0・6%減少。経済への影響は目に見えてきた。
専門家が定める基準とは別の基準
こうした統計が明らかになり始めたのは5月下旬ぐらいからだが、政府内にも経済活動への影響から「緊急事態宣言の解除を急ぐべきだ」という意見はそのはるか以前から出ていた。指定や解除を決める諮問委員会に、経済専門家を追加したのは5月の連休明け頃だ。この頃から、政府は解除に向けたシナリオを描き始める。
安倍首相は5月4日に緊急事態宣言の1カ月延長を表明するが、これは連休中に県境をまたぐ移動の自粛を継続させるためで、全国知事会の要望を意識したものだ。事実、連休が明けるとすぐに解除に向けた議論が始まっている。5月14日には、特定都道府県の34県に加え、特定警戒都道府県のうち茨城、石川、岐阜、愛知、福岡を加えた39県が解除になっている。
専門家が定めた解除基準は、「直近1週間で人口10万人当たり0・5人以下」だったが、石川や愛媛は基準を上回った。しかし、専門家が定める基準とは別の基準も基本的対処方針に定めていた。これが、感染状況を追えている場合には、同様の基準で「1人以下」だった。政府関係者は「0・5人以下では厳し過ぎるので、1人以下という特例基準を設け、幅を持たせられるようにした」と明かす。愛媛や石川はこうした別の基準をクリアする事で解除に至った。
すると、5月21日には感染が落ち着いていた大阪、京都、兵庫の3府県を解除。東京の解除については、当初の判断時期だった28日を25日に前倒しして東京、神奈川、千葉、埼玉、北海道を解除した。これには専門家の中からも「当初の判断時期は28日だったと思っていたのに、政府は恣意的な判断で前倒しした。解除ありきだ」と疑問の声が上がっていた。
ある政府高官は「25日の直前は感染も落ち着いていたし、一刻も早く経済活動を再開させた方がいいという意見が官邸には強く、解除出来るなら解除してしまおうという事になった」と明かす。結果的には、26日以降、東京の感染者は徐々に増え始めており、経済活動を再開させたい立場の官邸として、その判断は功を奏したといえる。
官邸と専門家の間にしこりを残した形になった緊急事態宣言の解除劇。経済活動を優先させた官邸のしたたかさに、専門家の間から出た「政府に良いように扱われた」との不満の声は、「感染症で死亡する人よりも経済で死ぬ人が多くなってはいけない」という政府内の意見にかき消された形になった。
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