ゲスト 北村 唯一
公益財団法人 性の健康医学財団 理事長
医療法人社団自靖会 親水クリニック 院長
どのような子供時代だったのですか?
昭和22年8月2日生まれです。家族は父外與次と母美子と2人の姉の5人。女系だった北村家に60年振りの男子が誕生し、祖父米三郎をはじめ皆が沸き返ったと聞いている。唯一の名は祖父が唯一の男子という意味で命名した。2代続く開業医の長男として医者になることが運命付けられ、恐らく跡取り息子として甘やかされて生意気に育ったようだ。東大時代には「歯に衣着せぬ物言い」等で周囲をハラハラさせたようだ。ご迷惑を掛けた方々も多いと思われる。誌面をお借りしてお詫びします。
祖父は金沢医専(現金沢大医学部)を出た後、船医を経て石川県津幡町で大正8年に北村医院を開業。父外與次は金沢医大(現金沢大医学部)を出た後に養子に来た。母美子は成績優秀で帝国女子医専(現東邦大学)を受ける直前に肺結核の初期と診断され女医の道を諦めたが、妹の照子が帝国女子医専を出て女医になった。
小学校では成績も良く、級長を毎学年務めたが遊んでばかりだった。冬は裏山でスキーを、夏は力自慢らと朝から相撲に取り組んでいた。自慢にはならないが6尺褌(ふんどし)を1人で締める事が出来た。2年の時に犀川小太郎先生に謡曲と仕舞を習った。謡曲は東大入学まで続け33冊を挙げた。後に京都の祇園一力で芸者の舞いに合わせて口ずさんでいたら、大層褒められた。
高校まで続けた野球チームでは2番でショートだった。お蔭で東大の医局対抗野球大会ではキャプテンとして優勝に貢献し胴上げの栄誉を受けた。地元の津幡中学ではテニスも始め、金沢県大会に出場した。中学に入ると勉強をし始め、学年で1番を取った。そして文武両道で名門の金沢大学附属高校に合格。3年間は寝ても覚めても勉強と野球の毎日で「何くそ!」という根性も付いた。東大理Ⅲの現役合格はそのお蔭だ。今でも勉強しないと罪悪感に囚われる。受験勉強の最中で風呂の時間は楽しみの1つだった。戦時中の話を父から聞きながら背中を流した。祖母がガンガン焚く薪風呂は熱くなり過ぎて閉口したが、それもいい思い出だ。
現役で東京大学医学部入学そして学生結婚へ
東大駒場の理科は社会に出た時に他学科の仲間がいると役に立つという事から異なる理科Ⅱ類とⅢ類が同じクラスとなっていた。私は昭和41年SⅡⅢ7Bだった。昭和43年1月、あの東大闘争が医学部から始まった。安田講堂前をスクラムを組んでデモをし、医学部長を吊るし上げる集会にも参加したが、総じてノンポリでテニスや麻雀、パチンコ屋へ通う毎日だった。昭和44年6月から医学部が再開されると猛勉強が始まった。思い出深いのはfree quarterである。これはfreeなquarter(1/4)という意味で、1年の1/4の期間、即ち7、8、9月の3カ月間の夏休みを利用して、国内でも海外でもいい、医学部以外の施設で自由に勉強して来い、というものだった。私はこの制度のお蔭で東大教授になれたと言っても過言ではない。
昭和45年11月に学生結婚した。高校の同級生で聖心女子大に進んでいた憧れの彼女と同窓会で再会を果たし交際に持ち込んだ。若干の紆余曲折があったが東大医科研の松本稔教授の仲人で結婚した。その後、2人の女の子に恵まれ、現在は長女の暁子の子(茉希)が唯一の孫であり、この春からは中学生である。
医師としてスタート…
卒業して泌尿器科を選択し、高安久雄教授の許で臨床家としての腕を磨く事になった。その頃(昭和48年4月)、分院泌尿器科には鬼と恐れられていた阿曽佳郎助教授と鬼軍曹の横山正夫講師がいた。皆、敬遠していたが、私は修行と考え分院の助手(正確には教育職技官)を志願した。初任給6万円は妻子持ちには有り難かった。大変勉強になったが、分院は1年でコリゴリだと翌年に国立小児病院に勤務した。
高安教授から尿路結石の勉強をしろという事で頂いた博士論文のテーマはCa代謝だった。入局後、6年(昭和54年5月)で医学博士号を取得し、その年に米国テキサス大学内科のPak教授の許でresearch fellowとなり、2年間の留学生活を送った。米国では尿路結石の結晶化の研究(Ca crystallization)で「Journal of Urology(泌尿器科ではtop Journal)」と「Kidney International(腎臓学会ではよく知られた雑誌)」の2編をpublish出来た。しかし、この2編だけではとても教授になれないと考えていた。
妻はダラスのカレッジで英会話の勉強を始めた。沢山の隣人達との会話の後押しであっという間に上達し、帰国してから海外旅行者向けの通訳案内士のA級ライセンスを取った。今では日光、浅草、京都等を案内する忙しい日々を過ごしている。
東大分院泌尿器科講師になった時(昭和60年11月)に、世にも珍しい膀胱癌に出会った。これは何かウイルスが絡んでいると直感が閃いた。縁は異なもので、free quarterで教わった渋田先生は、ウイルス感染の教授になっていた。何という幸運か。渋田教授は余郷嘉明先生を直接の指導者として下さり、それ以来、余郷先生との臨床と研究の約10年間に及ぶ二人三脚が始まった。大変貴重な研究が出来た。これが最初のbeginner’s luckでこれはCancer Researchに掲載され、私のウイルス学デビューとなった。その後、多くの先生方のご指導で立派な業績を挙げる事が出来、平成10年5月に東大泌尿器科教授に昇進出来た。
天皇陛下の主治医として…
若い頃は尿路結石の手術も腎細胞癌や膀胱癌の手術も沢山した。前立腺肥大症の経尿道的前立腺切除術(TUR-P)も多数してきた。そんな時、当時の天皇陛下(現上皇陛下)の前立腺癌を治療する機会に巡り会う。平成15年1月18日の前立腺全摘手術は東大病院で無事成功した。陛下の前立腺癌は既に硬結としてしっかり触れ被膜浸潤まであったので、摘除して正解だったと思っている。今でも陛下の前立腺癌は何の問題もない。両陛下と数度、食事をご一緒させて頂いた。一生の宝だ。
今後の目標は2つ。1つは一開業医として地域医療に徹する事だ。72歳となり手術はしないが、外来診療にて地域医療に徹し、江戸川区住民の健康保持のために全力を尽くしていきたいと考える。もう1つは東大皮膚科初代教授の土肥慶蔵が始めた「性の健康医学財団」の理事長を10年前から拝命している。この事業により子宮頸癌による死亡を減らしたいと考えている。
インタビューを終えて
天皇陛下の手術を担当された。どこの病院に入院されるかで紆余曲折があった。オペ前日には右翼の幹部が突然教授室に来て、成功を祈念して帰った。大変なプレッシャーを受けながらも成功した手術。凄い経験だ。医療勉強会の講師が突然キャンセルとなり、恐る恐る3日後の講師役をお願いした時、「引き受けるけど言いたい事を言わせて貰うよ」と快諾してくれた。その通り、参加者の先生方から「北村先生がそれを言ったらダメですよ!」と悲鳴が上がるほどの熱演だった。懇親会では先生を囲む大きな輪が出来ていた。そんな、豪胆で人望の厚い先生、実は家庭では大変な愛妻家でもある。 (OJ)
銀座 鮨青木
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年末年始休
第5回私と医療_北村唯一
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