清水祥史(しみず・あきふみ)1966年神奈川県生まれ。北里大学医学部卒業。同大学病院救命救急センター研修医。熱川温泉病院、箱根リハビリテーション病院、町田慶泉病院などを経て、今年4月から現職。
湘北病院(神奈川県相模原市)
リハビリテーション科専門医
清水 祥史/㊤
リハビリテーション科医師である清水祥史は、医師になって15年余りの間に、2度の悪性腫瘍に見舞われた。最初の手術で生涯の“相棒”となった車椅子を操りながら模索を続け、障害を個性と割り切りながら、患者と向き合っている。
救命救急医を目指し研修2年目に軟骨肉腫
清水は、医学部5年時に各科を回った臨床実習中に、救命救急の虜になった。最後の砦となる「3次救急」を掲げる大学病院には、次から次に多様な患者が運び込まれ、現場は活気があった。八方手を尽くして救命した時の達成感。激務であることは想像できたが、生涯を賭けてこの道に進みたいと、将来の方向性を定めた。
1995年に医師になると、救命救急の医局に入り、1年目は神経内科、呼吸器内科、腎臓内科、循環器内科と3カ月ずつ回り、主に救急患者に対する診療を学んだ。2年目は麻酔科から研修。6月、手術室で麻酔をかけていると、執刀医である整形外科医が清水の動きに目をとめた。「歩き方がおかしい。僕の外来に来なさい」。
当時の医師の研修と言えば、今で言う“ブラック企業”そのものだ。月曜朝5時に病棟に行き、帰宅するのは日曜の晩ということも珍しくなかった。清水は体力には自信があったが、腰痛が厳しいと感じていた。普通に歩いても、腰の痛みに堪えかねて、心なしか右足を擦るようにしていた。
整形外科でCT写真を撮ると、後日、担当医は写真を携え麻酔科教室を訪れた。右側の骨盤の骨皮質が厚くなっているという異常な所見が見て取れた。「分かるよね?」という問い掛けは、ただならぬ状態であることを意味していた。
それは金曜日のことで、月曜日には整形外科病棟に清水の病床が用意されていた。「落胆したが、一方で、ハードな研修医生活から解放されると、どこか安堵も感じていた」
しかし検査を重ねてみても、正確な診断は付かなかった。画像診断に加え、血液内科に骨髄穿刺を依頼して骨髄細胞を調べ、やっと診断が下ったのは8月だった。その日の診察には清水には知らされないまま、両親も同席していた。「君は医師なんだから、包み隠さず言うよ」。はっきりとした口調で「軟骨肉腫」という病名を告げられた。その頃、患者にがんを告知することはまだ一般的ではなかった。
「人生で最も落ち込んだ瞬間だった。病名告知に続いて、『果たして治療法はあるのだろうか』という思いが去来した」。同期の研修医たちが、病院内をてきぱきと駆け巡っているのに、自分だけもう2カ月も病棟にいることだけでもつらかった。
順を追って病状について説明を受ける中で、治療法もあると知り、どん底まで沈んだ心は上向いた。右骨盤半砕術と右大腿骨頭切除術。腫瘍のある右足の骨盤や大腿骨頭を切除し、代わりに人工関節で置換するというものだ。ただし、最悪の場合には、右足を切断するリスクがあることも告げられた。過酷な内容だったが、悪性腫瘍なのだから生命が保証されるのであればと、自分をなだめた。
骨肉腫とは異なり、軟骨肉腫は医学部の授業でもほとんど習ったことがなかった。少し下調べをして8月、手術の日を迎えた。母に励ましの言葉を掛けられたが、「手術するのは医者で、頑張るのは僕じゃないよ」と憎まれ口を叩く余裕もあった。
まず、腫瘍チームが骨ごと腫瘍を切除した後、股関節を専門とする整形外科医が再建手術をする。清水は全身麻酔をかけられて朝9時に手術室に入り、数日して目覚めると、ICU(集中治療室)にいた。恐る恐る足に触れると、両足ともあり、胸を大きくなでおろした。「とてもラッキーかもしれない」。
実は、27時間にも及ぶ大手術だったと知らされた。それは、生きて病院から退院した症例では、当時の北里大学における最長時間だったという。目が覚める前に解熱薬の点滴を受けたところ、血圧が一気に低下し、死線をさまよった。それも後から知らされた。しかし、腫瘍は取り切れ、心は弾んでいた。
66年、横浜市に生まれた清水は、じしない楽観的な性格で、神奈川県でナンバーワンとされる中高一貫校に進学した。人と接するのが好きで、将来は人に関わる仕事がしたいと考えた。心理学科と医学部が候補に挙がったが、理科系だったことから、医学部への進学を決め、北里大学医学部に入学。親族に医師はおらず、父は長年小学校の教員を務め、当時は校長だった。
医学生になると、打算的な思いも働いた。医師免許を取るなら、それを生かして大学に教員として残りたい。それには、あまり人が進まない科目が良さそうだと、法医学に目を付けた。教室に見学に行くと、まずは麻酔科など臨床医学の分野で研修を受けたほうが良いと助言を受けた。その1つに救命救急センターもあった。救命救急の臨床実習を受けるうち、法医学への関心は薄れた。
術後の感染症で入院は1年半に及ぶ
思いがけない病を得たが、何とか足切断も免れ、現場復帰への思いも、次第に募ってきた。しかし、運命はなかなか過酷だった。大手術の合併症として、人工関節の周囲に感染を起こしたのだ。痛みはなかったが、膿を持ったことで骨盤の周囲が腫脹してきた。CT検査を受けている最中に、膿が皮膚を突き破って出てきた。手術をして、感染の原因となっている人工関節を取り外すよりなかった。関節がなくなることは、自分の足では歩けなくなることを意味する。「医師だから、その後の経過が分かってしまう。つらい選択だった」。
その後、感染に対する治療が行われた。まず、膿を洗い流し、抗菌薬(ゲンタマイシン)を入れたセメントのビーズを10数個数珠つなぎにして埋め込んでいく。ビーズをつないだ針金は体外に出し、1日1個ずつビーズを抜いていく。この治療を7回繰り返し、再発はなくなり、術後感染を乗り切れた。96年6月以来、入院は1年半近くに及んだ。今後は、車椅子による生活を余儀なくされる。救急現場に行くことはできないだろう。
97年末に退院すると、自宅療養に移り、社会復帰のためのリハビリを始めた。3月の通院時、顔なじみの病院ソーシャルワーカーに出会うと、復職を助言された。清水はリハビリに取り組んだ経験もあり、リハビリ医を目指すことにした。大学時代には、リハビリの授業はほとんどなかった。3月から教科書を大量に買い込み、独学を始めた。病院で研修医が本格的に学び始めるのは5月だった。そこに2年遅れで合流すれば良いと思った。 (敬称略)
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