
長野県立
総合リハビリテーションセンター(長野県長野市)
リハビリテーション科
加藤 雄大/㊦
2017年1月、スノーボードの落下事故で、長野赤十字病院(長野市)に救急搬送された。第12胸椎骨折で脊髄損傷。直後に実施されるはずの医師国家試験に挑み、母校の信州大学で研修医になるという望みは、無残に打ち砕かれた。
動かない下半身を抱え社会復帰を目指す
下半身は全く動かせず、感覚すらない。強い不安に襲われていたが、落ち込んでばかりもいられない。「歩くのは無理だが、自立して生きなくてはいけない。大学時代のように引きこもりになるのは嫌だ」。自らを奮い立たせた。
急性期の圧迫骨折の治療が一段落すると、リハビリテーションが始まる。まずはベッドで、簡易なコルセットを着けて筋力トレーニングから。腕の筋力を鍛えるため、ゴムバンドを引っ張る。座位は取れるようになり、そのまま手で臀部を押し上げて持ち上げる、プッシュアップ動作を繰り返した。
障害を受け入れる覚悟はできていたはずだが、この段階では、まだ表面的だった。白馬村に暮らす母は看護師の仕事の合間を縫って、祖母は週に1度は見舞いに来てくれた。しかし、一足先に研修医として現場の波にもまれている同級生には、事故のことを知らせていなかった。「頑張っている仲間たちの輪に入りたい思いはあったが、弱っている自分を見せたくなかった」。
整形外科の骨折治療がひと通り終わり、3月に長野県立総合リハビリテーションセンターへの転院が決まった。本格的な社会復帰を目指し、より専門的なリハビリが待ち受けている。弱気はなるべく後ろに押しやった。けがの経緯をようやく同級生たちにメールで送ると、驚いて何人もが面会に来てくれた。メールを返してくれた友人も多い。「車椅子に乗れば、外出できるよ」「車椅子で医師をしている人もいる」と、口々に励ましてくれた。加藤の心はグッと上向いた。睡眠も栄養も、そしてリハビリも、医師になるための糧になると感じるようになった。国家試験を受けよう。
自立した生活のため猛特訓
生涯の移動手段となるはずの車椅子に座らせてもらい、手で漕ぐ練習を始めた。それに先立ち、車椅子へ移乗する架橋となるボードを利用し、ベッドから1人で乗り移る。そのボードは段々と小さい物に、最後は不要にすることが目標だ。並行して、何より大事な排泄のリハビリも開始した。導尿カテーテルを入れている感覚もなければ、尿意も便意も感じないようになっていた。赤十字病院入院中は、看護師にすべてお任せだったが、排泄面は早く自立したかった。「便座に座る」「ズボンを下ろす」「座薬を入れる」……。入浴も当初は全介助だったが、やがて脱ぎ着ができるようになり、シャワーチェアに腰掛け、体を拭けるようになった。
脊髄損傷もリハビリも、ひと通り教科書で学んだ知識だけだったが、勘所をつかむのは早かった。時々の目標は理学療法士が立ててくれたが、徐々に効果も実感し始め、楽しみになっていた。新たに加藤の主治医となったのは、整形外科とリハビリが専門で所長を務める清野良文だ。障害を受容し、笑顔も覗かせるようになった加藤を励まし続け「リハビリテーション科医という道もあるから」と誘った。大けがを負う前の加藤は、リハビリ医について漠然としたイメージしかなかった。大学では急性期医療を中心に学ぶ。医師未満だが、最も身近な存在であるリハビリ医の輪郭がつかめるようになっていた。
退院する日のことも考えた。実家がある白馬村は豪雪地帯で、家屋の玄関に段差がある。帰宅するには、宅内を含めバリアフリーにする改修が必要で、母が引き受けてくれた。また、長野では車の運転も必須だ。病院に併設する障害者の支援施設は、県内で唯一、運転の訓練もできる。自力で運転席に乗り移り、15kgもある車椅子を畳んで、後部座席に積み込む。アクセルもブレーキも左手のハンドル操作で行う。元々運動神経と勘が良い加藤は、ほどなく操作をマスターした。
翌18年2月に医師国家試験を受けるつもりで勉強を再開し、夏に初期臨床研修の打診で母校に出向いた。車椅子の医師は受け入れ側も困難を伴うはずだが、研修を受けられることになった。11月、「もう家に帰れるね」と清野に背中を押され、スタッフたちに見送られて、退院の日を迎えた。清野は、「是非ともリハビリ科を考えてね」と、念押しすることを忘れなかった。
18年3月、待ちに待った医師国家試験の合格通知が届き、4月から臨床研修が始まった。慣れ親しんだ大学病院も、車椅子では勝手が違った。当初は「あれもできない」「これもできない」と、焦りばかりが先立ったが、リハビリと同じで1つひとつ乗り越えるしかなかった。「車椅子を漕ぐため、清潔操作は課題だ。排泄も失敗するのが怖かった」。周囲の励ましと配慮で、2年間の勤務を終えた。後に入学した車椅子の医学生に対して、助言もできるようになっていた。
大学では、がんや心臓疾患でリハビリが必要な患者にも出会った。「あらゆる分野に、あらゆる段階のリハビリがある。どれも次の生活を高めるステップ」。リハビリ科こそが、自分を生かせる道と意志を固め、信州大学医学部附属病院リハビリテーション部に入局し、鹿教湯三才山リハビリテーションセンター鹿教湯病院(上田市)で後期研修医として歩み始めた。
尊厳の回復から次なる目標に向かう
1年後の23年春からは、かつて患者として治療を受けた長野県立総合リハビリテーションセンターで、医師として勤務している。主治医だった清野、そしてスタッフたちには心底から歓迎された。
仕事は、病棟の患者のフォローアップが中心で、担当患者は脳卒中の回復期が多い。四肢の麻痺に加え、嚥下、痙縮、褥瘡、さらには高次脳機能障害への対応もある。外来も当直もこなす。救急患者の受け入れはないが、深夜に内科的な症状に対応することはある。とっさの処置に戸惑い、スタッフの手を借りることもある。「人は1人では生きていけない。周囲に感謝しつつ、頼るべき所は頼れるようにもなった」。同じ脊髄損傷の患者や、車椅子になった理由を尋ねられた場合は、包み隠さず経緯を伝えている。
医師になって5年が経ち、次の目標は、日本リハビリテーション医学会の専門医資格の取得で、7月に東京で試験に臨む。スポーツも再開した。最初は、車椅子に乗ってする卓球。「仕事ができなかったら、パラリンピックでも目指すか」と、勢いで口にしたこともあったが、今はスポーツが楽しみだ。バスケットボール、テニスに加え、水泳も上半身だけでできる。冬季は座位で行うチェアスキーがあり、チャレンジしたいと思う。
事故の直後、人生は大きく狭められたと感じた。運命を呪うことはないが、一瞬の出来事に「失敗してしまった」という反省はある。失われたことがある反面、医師として目指すものが見えてきた。「リハビリテーション」はラテン語で、全人間的復権、すなわち尊厳の回復を意味する。身をもって体験し、医療者として現場に戻ってきたからこそ、その意味は心に響く。「自分がここまで自立できたのは幸運でもあるが、これまで100できていたことが今100できなくなったとしても、人にはポテンシャルがある」。(敬称略)
<聞き手・校正>ジャーナリスト:塚嵜 朝子
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