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未来の会

第185回 患者のキモチ医師のココロ
倫理観の欠如した医者、増えてませんか?

第185回 患者のキモチ医師のココロ倫理観の欠如した医者、増えてませんか?

香山リカ
精神科医・むかわ町国民健康保険穂別診療所 副所長
やさしい医療コミュニケーション講座


 「今こそ医療に倫理を」などと言うと、「この経営難の時代になんてズレたことを」とあきれられてしまうだろうか。しかし、倫理観を持って医療を行わなければ、結局は患者から信頼を得ることができず、経営も成り立たない、と私は思うのである。

 昨年の12月、 美容外科の女性医師が自身のSNSに海外での解剖実習の様子を写真つきで投稿し、大きな問題となった。もちろん解剖実習そのものが問題なわけではない。私もかつて美容外科の道に進んだ友人から、「顔のたるみのリフトアップは解剖を熟知していないとできない」と聴いたことがある。その医師もご遺体で顔面の筋肉の走行などを学ばせていただいた、と話していた。

 ただ、一般の人たちはそもそも「美容外科医が技術向上のためにご遺体を用いて解剖実習をする」ということすら知らず、それが驚きでしかないだろう。いくら「医療の世界では常識なんですよ」と言っても、一般常識や世間の通念からかけ離れているのであれば、私たち医療従事者は発言や発信に慎重になるべきだ。

 しかも、今回の投稿では、女性医師は「いざ Fresh cadaver(新鮮な御遺体) 解剖しに行きます!!」 と記し、ご遺体にはモザイクがかかっていたとはいえ、その前で笑顔で手を振る写真まで撮って掲載していた。善意で解釈するのならば、医師にはご遺体の尊厳をおとしめるつもりは毛頭なく、貴重な学習の機会を得て感謝と使命感で笑顔になっただけなのかもしれない。しかし、これも一般の人からは到底、理解できないだろう。誰もが目にするSNSに投稿してしまうのは、常識や倫理観の欠如と言わざるをえない。

内輪話をSNSに投稿してしまう医師たち

 どの職業や分野にも、その内部でしか通用しない価値観や言い回しなどがある。それ自体を撤廃すべきだと言いたいわけではないが、とくに命にかかわる医療の世界では、せめて自分たちが日常的にあたりまえだと思っていることも一般の人にとってはそうでない、ということをしっかり自覚すべきだと強く思う。

 具体的な例をあげると、私の勤務先には月替わりで研修医が実習に来るのだが、彼らがときどき使う「あたり」という言葉に違和感を覚える。「先週末の当直はカゼとか胃腸炎がほとんどだったけど、ひとり“あたり”がいましたよ」などと用いられるのだが、この場合、「あたり」とは軽症ではなく緊急対応が必要な疾患の患者という意味だ。もちろんそこには「うれしい」といった感情は込められておらず、単なる慣例的な隠語のようなものなのだが、患者本人や家族は「あたり」どころではなく、不運そのものとしか言いようがない。もし、自分の家族が受診して重篤な疾患が見つかり、担当医が「これは大あたりでしたね」などと言ったら、怒りとショックで倒れそうになるのではないか。

 もちろん、患者や家族に面と向かってそのようなことを言う医師などほとんどいないと思う。ただ、匿名で発信できるSNSができてから、そのようなことを投稿する若手医師が少なからずいるのだ。救急外来で勤務中、軽症の患者の受診にイライラしたとか、生活保護を受給している患者があれこれ処方を要求するのはおかしいとか、“心の声”をすべて文字化して書き込む医師もいる。また、見る人が見れば個人が特定されるような書き方で、診た症例について詳しくリポートする医師も少なくない。

 ただ私自身も立派なことを言える立場ではない。若い頃から一般向けの雑誌などに文章を書く機会があった私は、これまで何度となく「医師として倫理がなってない」と言われてきた。同業者からは「あなたのようなふざけた精神科医が精神医療の信頼度を大きく下げている」と叱責され、読者からは「つまらないことをペラペラ話す時間があるならひとりでも多く患者を診るべきだ」と忠告されてきた。それもあって、言い訳めいてしまうが、「医療現場での経験を文章化するときにはほとんどフィクションになるくらいに改変を加える」「精神医療など医療の信頼性を毀損するような内容はなるべく書かない」という2点には自分なりに注意を払ってきた。たとえば、マスコミと一部企業によるメンタル疾患の疾患喧伝を批判する際でも、「もちろん治療が必要な人も大勢います」としてその人たちの“受診控え”につながらないよう、疾患啓発の側面にも配慮してきたつもりだ。言うまでもないが、「当直で疲れた」とは書いても、「こんな患者が来て参った」ような事を書いたこともない。

今こそ医療プロフェッショナリズム教育を

 では、どうすればよいのか。医療機関によっては「勤務する医師は一般の人も閲覧可能のSNSではアカウントを持ってはいけない」といったルールをもうけているところもあるようだが、そこまでいくと憲法で定められている「表現の自由」に抵触しかねない。また、匿名の医師アカウントからの“本音の情報発信”を楽しみにしている閲覧者もいるだろう。

 そうなると、発信者側である医師や医療従事者が、自分なりの倫理観や職業意識をきちんと持って、「ここまではOK、ここからはNG」と線引きをしっかりすることが大事になるはずだ。

 いつも気になるのだが、現在の医学教育で、この医療倫理についてはどれくらいの時間が割かれているのだろう。たとえば慶應義塾大学医学部では1年から6年まで一貫して「プロフェッショナリズム教育」を行うとして、次のような指針が掲げられ、各学年で関連の講義が提供されている。

 「素人にとって、内容や質が容易に理解できない仕事に従事する専門職には、一定の資格・免許などにより特別な地位と独占性が認められ、それゆえ職業倫理の確立と尊重が求められます。医師はまさに、公益性、道徳性、専門性が強く求められる専門職(プロフェッション)です。(中略)医療技術、医療知識が加速度的に増加している現在こそ、医学教育においては『プロフェッショナリズム教育』が重視されています。」

 その充実ぶりには目を見張るが、おそらく他の大学でもこれに準じた教育は行われているはずだ。それにもかかわらず、いったん医師になってしまうと、一般の人から見て倫理観が激しく欠如したような発言をしたり、匿名となれば内輪でこぼすようなグチを堂々と不特定多数に向けて発信したりする人たちがいる、という現象をどうとらえればよいのだろう。仕事についた最初の頃は学生時代に学んだことを胸に慎重に振る舞っていても、どこかでイナーシャ(惰性)に陥り、タガが外れてしまうのかもしれない。だとしたら、この「プロフェッショナリズム教育」が本当に必要なのは、医学生ではなくて、臨床医として2年、5年、10年と働き続けた人たちなのではないか。

 何度も言うが、私は医師の表現活動やSNSでの発信を規制するのには反対だ。しかし、常に「自分たちの常識は患者にとっての非常識」ということを忘れてほしくない。あるいは、「もし自分の家族が患者になって、担当医にこう言われたらどう思うのだろう」と視点を替えて考える習慣はぜひ身につけてほしいと思う。むずかしい倫理学など勉強しなくても、実はそれだけでも十分なのだ。

 これを読んでいるドクターたちが、臨床や研究とともに今後も自由闊達にコミュニケーション活動を行うことを心から願っている。

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