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未来の会

第97回 医師が患者になって見えた事
医師国家試験直前にスノーボードで落下

第97回 医師が患者になって見えた事医師国家試験直前にスノーボードで落下

長野県立
総合リハビリテーションセンター(長野県長野市)
リハビリテーション科
加藤 雄大/㊤

郷里である長野県で、地域医療の担い手となることを志していた。医学部卒業を目前に控えて、医師国家試験の勉強に打ち込む中、突然の大事故で人生の番狂わせに遭遇することになった。

「人のため」母と同じ医療職を志す

出身地を問われれば、「白馬村」と答える。1988年に生を受けたのは東京だが、幼稚園までしか住んでいないので、都会で暮らした記憶はほぼない。祖母や母らと移り住んだ地は、日本アルプスに囲まれたウインタースポーツのメッカだ。ひとり親家庭で、母は看護師をしながら、加藤と3歳下の弟を育ててくれた。夜勤でいない日は寂しい思いもしたが、風邪を引いたり、けがをしたりした時、さっと手際良く処置し介抱してくれる母の姿は心強かった。

身近な母がロールモデルで、「人の役に立ちたい」と漠然と医療職を志すようになった。白馬は観光を生業とする人が多く、いわゆるサラリーマンの生活はイメージできなかった。

中学の3年間は卓球に打ち込み、学業にも秀で、県下トップクラスの進学校、長野県松本深志高校に入学した。片道1時間半以上かかる通学時間は、いい自習時間となった。生物、化学、数学はとりわけ面白く、得意だったこともあり、医学部志望を母に告げたが、「そこまで頑張らなくても……」と、理学療法士の道を勧められた。根を詰める加藤の性格を案じていた故だが、「国公立ならば」という条件で応援してくれ、現役で信州大学医学部に合格を果たした。松本深志高校から程近くもあり、白馬村の自宅から通えないこともないが、実習も大変だろうということで、松本で1人暮らしを始めた。

メンタルの不調で大学を一時休学

明確な医師像があったわけではない。将来は長野、それも地元である北信地方の地域医療に貢献したいと、内科系の医師を目指した。消化器内科や循環器内科は手技なども多く、奥深さもあった。

クラブ活動では、軟式テニスに打ち込んだ。順風満帆と思えたが、優れた医師たちを目の当たりにすると、自分も医師になれるだろうかという不安に襲われた。学校を休みがちになり、3年から4年になれず、留年した。5年生になると、また塞ぎがちになり、いったん実家に戻って休息し、母の機転で精神科も受診した。その甲斐あって、心の不調は服薬で寛解に至った。

復学して最終学年を迎えると、一緒に入学した同級生たちは既に研修医。早く追いつきたいと意気込んでいた。卒業試験も終え実家に戻り、2017年1月は正月気分もそこそこに、1カ月後に迫った国家試験の勉強に打ち込んでいた。孤独な戦いの中、気分転換したいと思った。それにはスノーボードが打ってつけだ。

スキー場は、自宅から徒歩圏内にあった。幼い頃からスキーに親しみ、小学校3年生からスノーボードも始め、ジャンプもできるようになっていた。長野で五輪が開催された1998年冬は小学校の4年生で、日本が金メダルを獲得したジャンプ競技の勇姿は目に焼き付いている。長野大会からスノーボードも五輪種目となっており、大学生となった加藤は、夏場は小布施町の練習場で、冬は白馬で夢中になっていた。

“裏庭”のように慣れ親しんだスキー場は1カ月ぶり、折しも降り積もった雪でジャンプ台のセッティングが少し変更されていた。スタートから助走を付けてジャンプ台に乗ったものの、距離がいつもより短く加速がつき過ぎ、まずいと思った。直後に踏み切って空中に飛び出すと、体勢を保持しようともがいたが、足払いされたように体は横向きに、背中から地面に着地した。新雪でない、アイスバーンの上に勢いよく叩きつけられた。

気を失って起き上がれずにいたが、スキー場のスタッフが急を察して駆けつけると、救急車では間に合わず、ドクターヘリも呼ぶ事態となった。

両足の感覚がなく脊髄損傷を予測

加藤が意識を取り戻したのは、ドクターヘリの中だ。「あれ、スノーボードに行ったはずなのに、何をしているのだろう」。首にはネックカラー、背中にはボードが入れられて固定され、身動きはできなかった。段々と記憶が蘇ってきた。ひどい落ち方をしたのだ。そう言えば、咄嗟の瞬間には宙返りすることも考えたが、それでは頭から落ちていた可能性もある。頭から落ちなかったことで、命拾いした。判断力は失われていなかった。手は動かせたことも、安心材料だった。

担架に横たわりながら、両手で上から全身をまさぐった。頭、胸、腹、腰、次は足だ。触れてみたが、両足とも全く感覚がない。何度もまさぐったが、感覚が失われていた。へその下、第12胸椎が外れたか。国家試験に向けて必死に覚えていた知識が蘇ってきた。背中には強い痛みがあり、足の麻痺を考えあわせ、「脊髄損傷ではないか」と、最悪の事態も脳裏をよぎった。

信州大学医学部附属病院(松本市)は受け入れの余地がないと、長野赤十字病院(長野市)に向かうと知らされた。救急隊から、家族に電話がかけられるかと尋ねられ、母に「ごめん。けがしたみたいで、長野に向かっている」と、短く伝えた。

病院に着くと救急医から整形外科の医師にバトンタッチされた。すぐに様々な検査が行われ、CTを撮影した結果、脊椎、第12胸椎の脱臼骨折と診断がついた。「脊髄損傷、腰から下は麻痺」という最悪の知らせを、誰から聞かされたか、その辺りの記憶はほとんどない。手術室で骨折個所を修復し固定する手術が行われた。

脊髄損傷はすなわち、一生涯、障害を抱えたまま暮らさなくてはならないことを意味する。駆けつけた母親も、同席して一緒に聞いていたはずだった。しかしその時、加藤の頭を占めていたのは、事態の深刻さより、1カ月後に迫った国家試験のことだった。車椅子にさえ乗れれば、試験は受けられそうだ。これまで積み上げてきた医学の勉強、国家試験を受けて医師免許を取得できれば、何とか一区切り付けられる。

主治医に尋ねると、さすがに受験は無理だという真っ当な判断を下された。初期臨床研修は信州大学病院で行うことが決まっていたが、もちろん受けられない。ただし、医師になる道が閉ざされたわけではなかった。「免許さえ取れれば、その先に何かがあるかもしれない」。絶望感が、人生のどん底だったとまでは思えなかったのは、薬の力の助けもあったかもしれない。メンタルの不調が治ってからも、再発予防で服薬は続けていた。

とにもかくにも命は取り留めた。ベッドに横たわりながら、一縷の望みとして、足の「不全麻痺」の可能性に賭けていた。日が経てば、わずかでも足を動かせるようになるのではないか。入院から1週間ほどして、ストレッチャーに横たわったまま入れる機械浴槽に入ると、全身が湯に浸かった。久しぶりの入浴で胸から上は心地良いと感じたが、腰から下は全く感覚がなかった。

「歩くのはもう無理だ」。落ち込みながらも、冷静に観察する“医師未満”の自分もいた。「麻痺は固定化していたが、生きなくてはいけない。学んできた医学を生かしていこう」。それが、日々のリハビリの原動力になった。同級生からさらに周回遅れとなったが、国家試験へ挑戦する気持ちが湧き上がってきた。その先に、働く場所を考えるのは、二の次だった。(敬称略)


<聞き手・校正>ジャーナリスト:

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