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未来の会

私の海外留学見聞録 ㉟ 〜医師として、将来の基礎になった楽しいNIH留学生活〜

私の海外留学見聞録 ㉟ 〜医師として、将来の基礎になった楽しいNIH留学生活〜

中川 秀光 (なかがわ・ひでみつ)
医療法人徳洲会 野崎徳洲会病院 総長、野崎徳洲会病院附属研究所 統括責任者
留学先:米国国立衛生研究所(National Institutes of Health)national cancer institute 客員研究員(1982年3月〜84年7月)

米国留学の門出と不安な旅路

大阪大学医学部附属病院脳神経外科での専門医取得と癌研究施設での基礎研究により博士号を授与された後、早川徹先生(後の医学部教授)から米国National Institutes of Health(NIH)内に在るがん研究所への留学を勧められた。

▲ Dr. Joseph D Fenstermacher

その頃、ワシントン国際空港で起きたポトマック川への墜落事故がテレビで報道されており、単身での渡米に不安を感じていた。実際に同空港に着陸する際、急角度での進入中にポトマック川が目に入り、冷や汗を流したことを今でも鮮明に覚えている。

到着後すぐにNIHへ向かうと、Dr. Joseph D. Fenstermacher(Joe)、Ronald G. Blasberg(Ron)、Cliff Patlak(Cliff)の3氏が出迎えてくれた。挨拶を済ませ、事前に手配されていたロックビルの住居に着くと、その日は安堵感から深い眠りについた。

最初の1週間は社会保障番号の取得、銀行口座開設、運転免許取得、車の購入と慌ただしく過ぎ、その後研究所での勤務が始まった。研究室では3人の黒人テクニシャン(Ernest Owen、Roosevelt Hyman、Tina MacLaine)と、レスラーのような体格のアルバイト学生Karmit君を紹介された。上司から彼らの業務管理も任されると聞き、身が引き締まる思いだった。

Ronから渡された論文で研究室の仕事を理解するよう指示され、翌日から毎朝9時に薬物取り込みに関する数式の講義が始まった。約1時間の講義は非常に難解で、当初は理解が追いつかず精神的に追い詰められた。逃げ出したい気持ちと戦いながら、必死で1カ月間勉強を続けた。

充実する研究生活とアメリカでの日常

家族の到着と研究室の仕事への理解が深まるにつれ、心にも余裕が生まれてきた。Ronは私の研究について詳しく話を聞いてくれ、テーマも強制することなく私の希望を採用したいと言ってくれた。研究室の主題は脳への薬剤取り込みに関するもので、私は悪性脳腫瘍への化学療法における血液脳関門(BBB)の修飾が有効かどうかを、ラット脳腫瘍モデルとradioautographyを用いて定量的に検討する方法を提案し、承認を得た。

▲ Dr. Blasberg (左)とDr. Patlak(右)

マサチューセッツ工科大学のアンシェアー女史の協力でautoradiographyと組織マッチングのコンピュータプログラムを開発し、アーニーと共に研究室のクレジットカードで必要な機器や備品を購入して研究体制を整えた。必死の努力の結果、1年も経たないうちにロサンゼルスでのNeurology学会での発表データが完成した。Ronからは期待以上の成果だと高く評価され、論文も1編完成して新たな研究の世界が開けてきた。学会参加時には、JoeとRonからNIHの活動費余剰金を提供していただき、家族で2週間の西海岸旅行を楽しむことができた。

その後、時間に余裕ができてからは、ビルディング10の脳神経外科部門のカンファレンスに週1回参加し、手術見学も行った。また、Nuclear Medicine Departmentの著名な雑誌編集者であるDr. Steven M. Larsonのカンファレンスにも参加する機会を得た。NIHはノーベル賞受賞者を継続的に輩出している環境で、日常的に受賞者と顔を合わせ、カフェテリアで会話を交わすこともあり、まさに夢のような研究環境だった。

研究以外の生活も充実していた。休日には家族でワシントンD.C.に出かけ、広大なキャピトル前広場で子供と遊び、ホワイトハウスや美術館、歴史的記念館を訪れた。冬にはポトマック川でスケートを楽しみ、バージニアの港で購入した海産物を家族で味わった。レッドスキンズ(当時)のアメリカンフットボールやボルティモア・オリオールズの野球観戦、日本から贈られた桜を祝う桜祭りとパレードを楽しんだ。研究の区切りごとには家族で2週間のドライブ旅行に出かけ、カナダ、フロリダ、テキサス、カリフォルニアを巡った。上司3人の家でのパーティーでは夫人同士も親しくなり、楽しい思い出が数多く残っている。

優れた指導者との密度の高い日々。そして帰国へ
▲ 自宅のパーティで(左から本人、Dr. Blasberg、Dr. Fenstermacher、Dr. Patlak)

初回の研究を終えた後、より高度な研究分野に取り組むこととなった。放射線科で広く用いられているPatlak理論(非侵襲的な脳血流量測定法として現在も標準的)や、Dr. Fenstermacherの理論(脳室—脳槽灌流法による拡散計測で2014年に表彰)を学ぶことになった。特にPatlak理論は数式が中心で理解に苦しんだが、徐々に把握できるようになり、充実した研究生活を送ることができた。

研究が進むにつれて3者との議論にも参加できるようになり、ニューヨークのMemorial Sloan Kettering Cancer CenterのDr. ShapiroやDuke UniversityのDr. Bignerとの共同研究にも携わる機会を得た。2.5年間の留学期間で、Raven Pressからの共著本1冊、筆頭論文3編、共著論文3編、学会発表2回という成果を上げることができた。3人の温かく素晴らしい指導者のもとでの研究生活は、人生で最も充実した時期の1つとなった。

留学2年目には次女が誕生した。近所のクリニックで妊婦健診を受け、分娩はフレデリック郡の病院で行った。しかし分娩後、胎盤遺残により大量出血を起こし、危機的状況となった。病院から緊急連絡を受けて駆けつけると、妻は意識不明で血圧が40〜50mmHgまで低下していた。米国の医師免許は持っていなかったが、看護師の要請を受けて鎖骨下静脈から中心静脈ルートを確保し、輸血を開始した。その後、医師の到着により手術室で適切な処置が行われ、事なきを得た。医師と看護師から感謝の言葉をもらったが、当時は必死の思いだった。

▲ 研究室の自室で

2年が過ぎた頃、大学から帰国要請を受けた。フォード・LTDで1カ月かけて北米大陸を横断し、サンフランシスコで車を売却して日本に戻った。帰国後1年してDr. Fenstermacherが再度の米国勤務を打診に来日したが、教授との相談の結果、最終的に断念することとなった。この留学経験は、その後の医師としての基礎となり人生の原動力となっている。

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