産業医科大学(福岡県北九州市)
医学部脳卒中血管内科学教授、診療科長
田中 優子/㊦
北九州で脳卒中をきっちり診られる体制を作りたい——故郷に母校の教授として戻った直後、2022年に遺伝性乳がん卵巣がん症候群(HBOC)が判明。2回の大手術と闘病から、夢の実現のため再起を目指す。
右乳房を全摘し、胆嚢も切除
小学校1年の時にアデノイド切除で入院したことがあるが、大きな手術は初めてだ。8月にまず、腫瘍がある右乳房を全摘、その後、消化器外科に胆嚢も切除してもらえるよう頼んだ。化学療法が必要になる可能性もあり、持病の胆嚢炎の食事制限や痛みも解消しておきたかった。休職期間を短くするための、異例の同日手術だ。乳腺外科の執刀医は大学バスケット部の先輩で、安心して身を任せた。
部分切除や再建手術も勧められたが、一部でも残せば再発するリスクと背中合わせだ。また、再建のために広背筋などを切り取れば体のバランスも崩れる、と潔く「全摘・再建なし」を決断した。切除したがんは約2cm、ステージⅡAと診断された。感覚神経も切断されたせいか、麻酔が切れても耐え切れない痛みはなかった。むしろ苦痛だったのは痒みだ。バストバンドを巻くと湿疹に悩まされ、絆創膏でもテープ負けした。
診療に穴を開けることへの不安が強かった。脳卒中血管内科は、2人だけの教室だ。急患が運び込まれれば、自分が手を出せずとも、部下に指示を与えなくてはならない。術後2日目、ドレーンを挿入され、やっと車椅子に乗れる状況で、脳梗塞患者搬送の第一報を受けた。病室に持ち込んだ電子カルテで確認すると、血栓回収の治療を施すよう部下に指示した。毎朝のカンファレンスにも病室から参加した。
入院2週間、休職3週間で、職場復帰した。センチネルリンパ節に転移はなかったが、オンコパネルのリスクと年齢を照らすと、ガイドライン上は術後化学療法が推奨されていた。しかし、腫瘍マーカーの値が抑えられていたことから、ホルモン剤のみを服用することにした。
徐々に発症前のハードな生活が戻りつつあった。昼夜を問わず急患があれば駆けつけ、術後はオンコール体制で、当直もこなした。緊急患者があると深夜まで水分以外取れない日々は、常態化していた。「医師の働き方改革」の実施は迫っていたが、病院も田中も、病院に長居する因習から抜け出せずにいた。腫瘍マーカーは緩やかに上昇していた。23年が明け1月後半から、経口抗がん剤TS-1の内服を開始すると、全身倦怠感が襲った。嘔気も生じ、53kgあった体重は40kg台に落ちた。服薬の継続は困難だ。それ以上に問題だったのが、腫瘍マーカーが下がらなかったことだ。結局、化学療法は避けられなかった。
左乳房と卵巣を切除し本格的化学療法
右乳房切除から10カ月を置いて、予防的な左乳房と卵巣の摘出手術を受けることになった。HBOCが判明した時から予定していた手術だ。4月24日、前回同様2つの臓器の切除を同日に実施した。術後の標準的なEC療法では、エピルビシンとシクロフォスファミドを用いた点滴を3週間に1回、4クール続ける。退院前に右鼠径部の皮下に薬剤投与のためのポートを埋め込んでもらった。5月22日が初回投与だ。2週間を過ぎた頃から髪が抜け始め、指を差し入れるとゴソッと抜けた。「髪はアイデンティティの一部で、乳房や卵巣の切除よりショックだった」。動悸や頻脈にも苦しんだが、7月末に完了した。
8月からパクリタキセル週1回投与が始まった。田中が行う手術は繊細な手技が命綱、事前に「痺れが出たら薬は中止する」と宣言していた。初回から手の痺れが生じ、3回のみの投与で終了となった。10月初旬から、HBOCの特効薬とされるオラパリブを内服した。腫瘍マーカーは1回跳ね上がるも、その後正常化している。嘔気や強い倦怠感に加え、意欲が失せ気分の落ち込みも強く、仕事を辞めたいとまで思い詰めた。副作用の1つに疲労・無力症があるという。対症的な漢方薬なども処方されたが、そのまま継続は難しく、12月にオラパリブを減薬し1年間飲み切った。味覚障害で甘い物にも苦味を感じた。好きだった酒もほぼ飲めなくなった。
24年10月20日、完全に抗がん剤から解放された。最初の診断から2年半が経過していた。長い闘病で心身の苦痛に加え、高額な薬剤費も痛手だった。高額療養費の自己負担限度額も高く、がん保険に加入していたことを本当に幸いと思った。
抗がん剤を卒業し未来を思い描く
就労には産業医との面接が必要で、化学療法が始まった23年5月以降、手術にストップがかかった。そこで、昭和大学時代の上司だった寺田友昭(現・特任教授)に月1回、待機手術を担当してもらった。「最も信頼の置ける専門家の手術に入れば、若い医師にも得難い経験になる」と、怪我の功名で教育的効果も得られた。緊急手術は月に2回程度で、田中自身の担当を許可してもらった。外来も代わりがいないため、田中がこなした。オンコール勤務や当直は免除。教室トップとして新病棟の運用といった管理業務には向き合った。
闘病中、医師であることは利点となった。専門外の乳がんは、診療ガイドラインにひと通り目を通したぐらいだったが、それでも治療方針が把握できた。「自身が行う手術は、患者の生命を左右しかねず、毎回逃げ出したくなる。乳がんの治療は悩む余地もなく、身を委ねて待つだけ。こんな楽なことはない」。
同じくHBOCの肝転移で抗がん剤治療中の母と同居を始めた。「家と病院の往復だけ、根無し草のように生きてきたが、励まし合いながら食卓を囲んでいる」。平日は母娘2人で病院に近い田中の家で暮らし、週末は、福津市に母が建てた家に移動し、2人の妹たちも交え、ゆったり過ごす。響灘を望む海沿いの町で、朝の散歩で海岸のゴミを拾い、地元とのつながりを実感する。抗がん剤治療中は、愛犬の散歩以外、体を動かすことが億劫だった。元来はスポーツ好きで、コロナ禍前は仕事帰りにジムに通っていた。ゴルフ歴は15年、茨城にいた頃は、仕事前に早朝からコースを回るほどのめり込んだ。日本アルプスを訪れてから登山にもはまり、草木を鑑賞しつつ山歩きを楽しむ。北九州に戻ってからは釣りに親しみ、響灘や日本海の遊漁船で四季折々の海釣りに興じる。
薄皮を1枚1枚脱ぎ捨てるように体力が回復する中、やっと目標が立てられるようになった。手術がもっとうまくなりたい。脳卒中診療を充実させたい。そして、余暇も存分に楽しみたい。
「昭和生まれで、何でも根性で乗り切るつもりでいたが、病のようにままならないことがある。以前の生き方のままでいたら、働き過ぎで心身が破綻していたかもしれない」。自分だけでなく、後進の教育にも生かせる教訓も得た。長患いをしている患者により共感を寄せられる、事務的な対応や言葉遣いで、傷つく頃合いも分かる。
転移の恐怖から、完全に解放されたわけではない。脳神経外科には、生死の瀬戸際にある人も、乳がんで脳転移した患者もいる。「人間はいつか死ぬ。食生活や睡眠を大切に、それでも病気になったら、それも天命。悩んでも何も変わらないので、自分で変革できることを大事に、生きていくのみ」。(敬称略)
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