シンガポールの民間医療機関IHH
IHH(Integrated Healthcare Holdings)は、1974年に「世界で最も信頼されるヘルスケア提供グループになる」というミッションのもとに設立された巨大株式会社グループで、世界10カ国(シンガポール、ブルネイ、中国、マケドニア、マレーシア、インド、イラク、トルコ、ベトナム、UAE)で1万2000以上の病床6万5000人以上の従業員を誇る。マレーシアとシンガポールの証券取引所に上場し、大株主として日本の三井物産があることでも知られている。
筆者が、『アジアの医療提供体制 日本はアジアの医療とどう向き合えばいいのか』(日本医学出版)あるいは『医療で「稼ぐ」のは悪いことなのか?』(薬事日報社) などで提唱してきたように、アジアの病院では診療報酬の原資が乏しいこと、あるいはシンガポールのように配分が少なく設定されていることなどがあり、病院自身がある程度稼がないと高度な医療が提供できないという状況にあった。
中でもシンガポールは、こうした株式会社立の民間病院が非常に多く設立されているエリアとして知られる。IHHの病院はその代表的なものであり、すでに述べたようにシンガポール国内の病院ランキングでも上位に食い込み、高度医療を提供している。今後5年間でインド、マレーシア、トルコを中心に約4000床を追加し、33%拡張する計画だという。
よく議論になるのは、このような民間病院と公立病院との差は何か、という点である。国によっては、株式会社病院の方が公立病院より高度な医療を提供している場合もないことはない。だが、基本的に医療を提供するのは医師である。となると、給与の差はあれども、その医学的使命が民間と公立とで異なるわけもなく、同様なレベルでの医療が提供されていることがほとんどである。では何が違うのかと言えば、やはりホスピタリティの点だと言える。たとえば部屋の快適さ、スタッフの接遇、医師を指名できるかどうか、対応の迅速さといった点である。もしくは、シンガポールの中で認められていないような高度医療を提供できるといった点が異なっている。
シンガポール国民からすれば、民間病院と公立病院はどちらも自らのメディセイブで支払うため、端的には選択肢が増えているといった感覚と思われる。しかし周辺国の富裕層は全く違った感覚で、自国で受けられない高度な医療をシンガポールの民間病院に受けに来るといったことになる。これは後述する日本人の駐在も全く同じことが言える。
このように、高度医療にフォーカスした経営を実践しているのが株式会社立の民間病院であるが、彼らも高齢化の波を受けている。すなわち、富裕層相手の高度急性期医療だけではシンガポール国民のニーズに応えられない、あるいはシンガポール政府との協力関係が保てないのである。そこで、このような株式会社立病院も、地域医療あるいは民間が中心となったプライマリケアのクリニックのグループ化を通して、シンガポール国内の医療に貢献しようとしている。
日本人対応クリニック
実は、海外における日本人駐在員や在外邦人への対応も大きなビジネスチャンスとなっている。シンガポールでは、日本との経済連携協定の中に医師免許の相互承認条項が有り、30名ほどの医師が現地医師をメンターとして、日本人対応のみの限定免許という形で診療を行っている。このような病院の中で最大級のものが、IHHと同様に株式会社の病院グループであるラッフルズメディカルの基幹病院であり、ラッフルズホスピタル内にあるラッフルズジャパニーズクリニックである。ここでは数名の日本人医師が、それぞれ専門性を生かして日本人対応を行っている。これ以外にもIHHのグレンイーグルスホスピタル内にある日本メディカルケア、NIHON PREMIUM CLINIC(ニホンプレミアムクリニック)、Japan Green Clinic (ジャパングリーンクリニック)、The Japanese Association Clinic, Singapore(シンガポール日本人会クリニック)などが診療を行っている。こうした病院は、主としてプライマリケアを担い、専門的医療が必要な場合は専門医を紹介するため、シンガポールにおける日本人はかなり安心して医療を受けることができる。健康診断や人間ドックも充実しており、周辺国から健康診断や人間ドックを受けに来たりするケースも多いという。
UHC(ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ)指数
UHC指数とは、国や地域の医療サービスの普及度や質を測る指標の1つである。WHOと世界銀行が2015年に発表した「Tracking Universal Health Coverage: Global Monitoring Report」によると、UHC指数は以下の2つの要素で構成されている。
Ⅰ.必要不可欠な公共医療サービスの適用範囲(Service coverage index): 提供する14の医療サービスの利用率の平均値で、0から100の間で表される。医療サービスには、予防接種、家族計画、出産時のケア、結核やマラリアなどの感染症の治療、非感染性疾患のスクリーニングや管理などが含まれる。Service coverage indexの計算方法は、サービスの利用率をそれぞれ0から100の間で表し、次に、これらを①生殖・母子・新生児・児童の健康(RMNCH)、②感染症、③非感染性疾患、④サービスの能力とアクセスの4つのカテゴリに分類し、それぞれのカテゴリについて、その中の医療サービスの利用率の幾何平均を求める。RMNCHのカテゴリには、4つの医療サービスが含まれる。同様に、他の3つのカテゴリについても幾何平均を求め、Service coverage indexは、これらの幾何平均の幾何平均として求める。
Ⅱ.家計収支に占める健康関連支出が大きい人口の割合(Financial protection index):医療費の自己負担が家計収入の10%以上になる人口の割合で、0から100の間で表される。この指標は、医療費の自己負担が高いほど値が高くなる。
統計が取れる192カ国の中で、21年度のService coverage indexはカナダが1位、アイスランド、シンガポール、大韓民国は2位で、日本は26位と振るわない。一方、17年の調査で、Financial protection indexが最も低かった国はフランスで、逆に、Financial protection indexが最も高かった国はベネズエラで、99.9であった。日本のFinancial protection indexは、2.6であり、世界の182カ国の中で第6位に相当した。
まとめ
シンガポールの医療制度はリー・クアンユーの思想、あるいはイギリス的な考え方を色濃く反映している。すなわち自己責任という考え方である。ただし、急速な高齢化に伴い様々なサポートがなされるようになってきており、それが非常に複雑化したため、シンガポール人でもどこまで理解しているのか分からないような状況になっている。
その意味では、日本も同じような複雑さにあるとも言えるが、日本の場合は自己負担の割合等が明確であり、シンガポールより分かりやすいと言える。しかし一方で、自己責任の原則が貫かれているシンガポールの方が医療費を抑制するという意欲が働くだろう。また気になるのは、上述したUHC指数であり、確かに提供できる医療の範囲という点では、シンガポールより日本の方が数段幅広くはあるが、予防も含め必要な医療を必要な人に適切に行っているかと考えると、もしかするとシンガポールのほうが上なのかもしれない。
いずれにせよ国が小さく、あまり参考にならない面もあると思われるが、日本の県あるいは地方単位で考えれば、この程度の規模の話は充分あり得るわけで、やはりシンガポールから学ぶところは多いと言わざるを得ないのではなかろうか。
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