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未来の会

第32回 私と医療 ゲスト 頴川 晋
東京慈恵会医科大学 悪性腫瘍リキッドバイオプシー応用探索講座 教授

第32回 私と医療 ゲスト 頴川 晋東京慈恵会医科大学  悪性腫瘍リキッドバイオプシー応用探索講座 教授
GUEST DATA
頴川 晋(えがわ・しん)①生年月日:1957年2月1日 ②出身地:静岡県 ③感動した本:『ジャン・クリストフ』(ロマン・ロラン)、『ローマ人の物語』(塩野七生)、『満州国演義』(船戸与一)、『坂の上の雲』(司馬遼太郎)④恩師:小柴健(北里大学医学部教授)、車田正男(新潟大学解剖学教授)、Peter T. Scardino(MSKCC教授)、Timothy C. Thompson(MD Anderson Cancer Center教授)、Per-Anders Abrahamsson(Lund University 教授) ⑤好きな言葉:「孤高」、「True knowledge exists in knowing that we know nothing.」(Socrates)、「A chain is no stronger than its weakest link, and life is after all a chain.」(W. James)、 ⑥幼少時代の夢:船長さんになって大冒険をする ⑦将来実現したい事:アジアの優秀な人材を世界に紹介する、コンステレーションを創出する。横断的Patient Engagement Groupをアジアに定着させる。
父親の背中を見て兄弟3人で医療の道へ

東京に生まれ、直ぐに父の仕事の都合で岩手に転居しました。北上市から車で30分程山中に入った口内村(当時)という所です。そこで父は診療所に勤めていました。幼少時代は村の文庫で借りた『ロビンソン・クルーソー』を読んで、大航海を夢見ていました。小学5年生の時、父が静岡の沼津市で開業する事になり、再び一家で引っ越す事に。両親は子供らの行く末を考えた上で、より温暖な土地を選んだのでしょう。1学年20人強の田舎の学校でしたが、慣れ親しんだ友人との別れは悲しく、皆の前で必死に涙を堪えていたのを覚えています。

小中は公立の学校に通い、中学ではブラスバンド部に入りクラリネットを担当しました。高校は受験をして市内の進学校の沼津東高校に通いました。父が内科医だった事もあり、単純に将来は医師になるものだと思っていました。私は3人兄弟の真ん中で、兄は歯科医、弟は整形外科医です。大学受験を考える頃になると、生まれ育った北上への郷愁の念は日増しに強くなり、岩手医科大学に進学しました。

兄貴分の先生との出会いが人生の最初の分岐点に

若き日の私はのんびりしていて、先輩から誘われるがまま、ほぼ未経験で柔道部に入部しました。新潟大学から助教授として赴任した解剖学の車田正男先生が、3年次の授業初日に白いつなぎの服を着て現れた時には驚きましたが、当時30歳で年齢も近く、学生達から親しまれていました。或る日、車田先生が自宅で牛の心臓の解剖実習をすると言うので訪問すると、何の事はなく焼き肉パーティーが始まりました。兄貴分の様な存在で、街へ出掛けてはお酒をご馳走して頂きました。そんな先生ですが、「良い臨床医になるには、基礎が分からないと駄目だ」という言葉は、私の人生に影響を与える事になりました。人生の岐路には誰かが立っていると言いますが、車田先生は正にそういう人物、最初の分岐点に立っていた方です。

大学を卒業してからの1カ月半、ヨーロッパにバックパッカーの旅に出かけました。乗り放題のユーレイルパス1枚を携えてウィーンを出発。そこからは行き先を決めず、来た列車を昼夜乗り継ぎヨーロッパ中を巡りました。但し、最終目的地はドイツのゲッティンゲンと決めていました。そこで留学中の車田先生と会う事になっていたからです。その時、ゲッティンゲンのラートハウス(市庁舎)地下のレストランで食べたタルタルステーキの味は、今でも忘れられません。初めて見る生肉の料理に戸惑いながら意を決して口に運ぶと、その美味しさに感動したのです。

恩師の激励を受けて米国で臨床と基礎を学ぶ

テレビで見た腎臓移植の世界に憧れ、北里大学の泌尿器科に入局しました。ところが、移植の機会が巡って来る事は少なく、痺れを切らしていると当時の小柴健教授から米国留学を勧められました。しかし、折しも父が肝臓を患い、実家を継いで欲しいと頼まれていました。改装工事の図面も見せられ、私の心は葛藤を繰り返すばかり。最終的に、留学早々に何とか理由を付け帰国して実家のクリニックを継げば良いだろうと、煮え切らない気持ちのまま米国に渡りました。

留学先であるヒューストンに在るベイラー医科大学の著名な臨床家、前立腺がんを専門とするピーター・スカルディーノ教授には「本物」とは何かを教わりました。暫くすると、有難い事に基礎研究者として名高いティモシー・トンプソン先生からも熱烈なお誘いを頂く様になりました。こうして分子生物学の研究に没頭して行ったのです。気が付けば3年半の月日が流れていました。結局、実家の診療所は弟が継いでくれたものの、最後に親孝行が出来なかった事は今でも心残りです。

帰国後は北里大学に戻り、前立腺がん治療ではホルモン療法が主流だった日本で根治術や腹腔鏡手術を確立して行きました。もう1つの課題は、米国で体験したアカデミズムを実践する事。その為には自らが指導的立場になる必要が有ると考え、2004年に47歳で東京慈恵会医科大学の主任教授に就任しました。しかし、02年に附属病院の前立腺がん腹腔鏡下手術で起きた医療事故の為、腹腔鏡下手術は再開出来ないままでした。医局員を奮励し、再出発に向けて力を合わせ、半年掛けて再開を果たす事が出来ました。その後は放射線療法など他の治療バリエーションも大きく広がり、臨床成果も研究実績も各段に伸びて行きました。

ネットワークを生かして日本の医療を海外へ

24年、北里大学の後輩の松本和将先生が教授に就任しました。大分以前、私の留学先であるベイラー医科大学に松本先生を連れて訪問し、膀胱がんの専門家である旧知のセス・ラーナー教授に紹介しました。それを機に松本先生はフェローとして留学する事になり、膀胱がんを専門として実績を上げました。初代教授の小柴先生に頂いたご縁が脈々と次の世代へと繋がった事は感無量です。幸いな事に、私の医師としての人生は国内外の多くの人物との出会いに恵まれました。こうしたネットワークが私の代のみに留まらず、後生まで末広がりに続いて行くダイナミックな「コンステレーション」を築く事が私の夢です。

先日、海外の知り合いに日本のレジェンドを紹介して欲しいと頼まれ、留学前に勉強させて頂いた京都府立医科大学名誉教授の渡邉泱先生をご紹介しました。1967年に渡邉先生が開発した経直腸的超音波断層法は、今や世界中で前立腺の診療に広く用いられています。日本の素晴らしい医療を海外へ発信する役割も果たして行きたいと思います。

アジアに共通の価値観を創出し、一枚岩の学会に

将来実現したいのは、アジアにPatient Engagement Groupを創設する事です。アジア泌尿器科学会(UAA)には現在30カ国が加盟していますが、それぞれ文化や背景、意識も違えば、プライオリティも異なります。今年、事務総長に就任予定です。責任者として2026年にフィリピンで開催される学会に向け、アジアに共通の価値観を創出し、分散している患者グループを1つに統合する計画を練っているところです。

最近は健康維持の為にも、最低週1回のゴルフを習慣にしています。内視鏡手術の導入は、外科医の寿命を延長させました。以前はどんなに優れた外科医でも視力の衰えには勝てず第一線から退いたりしたのですが、今では70歳を過ぎても現場に立つ医師が少なくありません。私自身も色々な形でまだまだ医療界、延いては社会に貢献出来ればと思っています。

インタビューを終えて

実にジェントルマンだ。医師の裕福な家庭に生まれた典型的なお坊ちゃまが、純真さを忘れる事なく青年、そして大人になったお陰なのか。物腰は穏やかだが、その穏やかさが却って存在感を生む。日本人的ではない希有な医師だ。米国留学を経験した事で、多くの人脈が繋がり、若くして教授のポストを得た。海外を知った事で視野は世界を向く。益々の活躍が見える。(OJ)


ウニの共殻焼き
三島由紀夫を筆頭に各界のセレブリティに愛され続ける名店。ウニとエビのすり身の濃厚なムースをウニ殻に詰めて焼き上げた人気の一品は、ザ・プレミアム・モルツの深いコクと旨味と好相性。

レストラン カナユニ
東京都港区南青山4-1-15
アルテカベルテプラザBF1
03-3404-4776
18:00〜24:00 (C.L.)
日曜・祝休(変則月曜休)
※営業日・時間に変更がある場合がございます。

 


 

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