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第95回 医師が患者になって見えた事
教授就任直後に44歳で乳がん発覚

第95回 医師が患者になって見えた事教授就任直後に44歳で乳がん発覚

産業医科大学(福岡県北九州市)
医学部脳卒中血管内科学教授、診療科長
田中 優子/㊤

田中 優子(たなかゆうこ1977年福岡県生まれ。2003年産業医科大学医学部卒業。同大学病院産業医学修練医。2009年和歌山ろうさい病院、14年昭和大学藤が丘病院助教、15年石岡循環器科脳神経外科病院助教等を経て、21年から現職。

地元の産業医科大学を卒業し、12年間の修行を積んだ後、教授として母校に舞い戻った。意欲に満ち充実していた矢先、44歳で大病に見舞われ、2度の手術と長い闘病を余儀なくさせられた。

コロナ罹患中、右胸にしこりが

2021年4月、昭和大学から産業医大に着任。脳卒中血管内科学教室の立ち上げは、“のれん分け”、師匠からの独立だ。ただ1人の専門医として、毎日がオンコール勤務。患者が搬送されれば、駆けつけて血栓を回収する。病院から20分以上離れた場所には出かけず、ジムも近所に通っていた。赴任早々で、幸いに学内の委員などの役職はなかったが、身体の疲労より精神的負担が大きかった。

22年5月の大型連休明け、新型コロナウイルス感染症に罹患し、2週間の自宅療養となった。多忙な毎日はシャワーで済ませていたが、ゆったり湯船に浸かれば、回復も早まるだろうと考えた。体をほぐしているうちに、右胸のしこりに指先が触れた。肋骨の並びでなく、1〜2cmの大きさの腫瘤のようだ。腫瘍に違いないと直感した。慌てて医療機関を探し、最短で受診可能なクリニックに5月21日に予約を入れた。実は、田中の母は50代で乳がんを発症し、70代で対側にも見つかった。両側の乳房切除をしたが、肝転移が見つかったばかりだった。母は2度目の手術から産業医大で治療中で、執刀した主治医は大学のバスケット部で田中の2級上の先輩だった。親しい仲で田中も定期的に検診を勧められたが、忙しさにかまけて顧みることはなかった。

40代半ばは乳がんの好発年齢だ。検査の日、良性腫瘍の可能性もあるとの楽観論も半ば、マンモグラフィやエコー検査を受けた。だが家族歴もあり、その日のうちに組織診(針生検)も行った結果、乳がんは決定的となった。迷うことなく母の主治医でもある産業医大の先輩宛てに紹介状を書いてもらった。長年の付き合いで信頼を寄せていたし、自分の勤務先で治療すれば休職も最小限で済むだろうと考えた。がんの宣告はもちろんショックだが、母の経過からすぐに大事には至らないだろうということも察せられた。「自分が教室を任されたのに、職務を果たせなくなるかもしれない。それが1番怖かった」。

父と祖母の脳卒中に直面

田中が生まれ育ったのは、近代日本を支えた北九州市だ。明治時代(1901年)に官営八幡製鉄所が操業を開始。両親の実家は代々当地で鉄鋼業に従事したり、農業を営んだりしていた。77年生まれの長子で、父は地方公務員、母は専業主婦だった。2人の妹と共に健やかに育ち、柔道に打ち込んだ。小学校時代に東北を旅行し、野口英世記念館で偉人の生き方に感銘を受けた。「医師になり、人命に貢献したい」と思った。

中学2年の時、41歳だった父が脳梗塞を発症。自宅から最も近い大病院が産業医科大学病院で、搬送され一命を取りとめた。麻痺も残らなかったが、損傷を受けたのが前頭葉だったことで性格が一変した。感情が抑制できず暴言を発し、突発的な怒りや衝動的行動が現れた。何とか職場にとどまったが、問題行動が目立っていた。

家族も体調を崩し、妹たちは不登校となり、やはり同院の小児科に一時通った。田中も不安定な思春期で、家族に付き添って通院する中、自分の悩みを医師に明かすこともあった。そうした経験から子どもをケアする小児科医が目標となった。地元の進学校、県立東筑高校に進学。母は介護ヘルパーの資格を取り、働きながら家族を支えていた。「手に職」が口癖で、医師を目指す田中を応援してくれた。自宅から通える国公立の医学部を目指したが、現役では合格できなかった。

秋に産業医大の学園祭があり、立ち寄った母が、耳寄りな話を聞き込んできた。産業医大には、卒業後に産業医等として11年間勤務することを条件に、返済不要の奨学金があり、加えて在学中は月5万円が給付される。学費の不安も払拭され、翌春奨学生として産業医大の合格を勝ち得た。在学中は勉強に打ち込み、3年生で負傷するまではバスケ部でも活躍した。卒業した2003年は新医師臨床研修制度導入の前年、「内科も心も一緒に診られる」とのうたい文句に誘われ、臨床実習で興味を抱いていた心療内科に入局した。

心療内科は、脳神経内科と同じ医局だ。神経内科の研修が進むと、脳卒中の診療が面白くなった。突然の病に見舞われて、患者は必死で立ち直ろうとする。全身を管理しながら患者を支え、回復に導いていく。05年にt-PA静注による血栓溶解療法が保険適用となり、画期的な治療効果を目の当たりにした。外部の病院で、心臓カテーテル治療の研修も受けた。胸にメスを入れることなく血管の詰まりを解消できるのなら、いずれ脳の病変にもこの治療が適用される日が来るはずだ。「脳卒中が治せる時代が来た。そこを極めよう」。

卒後6年目、一過性脳虚血発作を起こした父方の祖母が産業医大に運ばれた。田中が主治医となったが、出張の最中大きな血栓が詰まり、寝たきりになった。当時、血栓回収療法は行えず、半年後に亡くなった。田中は、地域の脳卒中診療を向上させたいと真剣に考えるようになった。

産業医大での勤務を終え、本格的に血管内治療を深めようと、09年から和歌山ろうさい病院(和歌山市)で、第一人者である寺田友昭の下で修行を始めた。14年、寺田が昭和大学藤が丘病院(横浜市)教授となると、田中も共に異動した。スキルアップする中で、茨城県の脳神経外科病院に3年間派遣された。昭和大学に戻って3年後、母校の産業医大で教授の公募があった。

父や祖母の闘病経験もあり、北九州の脳卒中診療に貢献したかった。大都市圏に比べ、カテーテル治療の専門医は少なかった。「勉強してきたことを地域に還元したい。またとないチャンスだ」。教授職は、医師を育てて地域医療に貢献する手段と考えており、選考に通って歓喜した。

術前検査で遺伝性乳がん卵巣がん判明

脳卒中を専門とする医師は体力自慢が多い。田中も昭和大学にいる頃、オフも登山やゴルフに駆け回っていたが、20年以降はコロナ禍で運動する機会が途絶えた。九州育ちで、焼酎などを好んだ。コロナ禍で外食が制限されると、自宅で有名シェフのレシピに挑んだ。家庭料理に比べ高カロリーのごちそうで、酒が進んだ。ある日の飲酒後、深夜に上腹部に激痛が走った。大学での診察で胆嚢炎が判明したが、胆石はなく、ウルソ錠を服用しながら脂肪制限を始めた。常態化している睡眠不足とストレスに加え、体を蝕む要素があった。

乳がんの診断で手術は避けられないが、その後はホルモン剤を飲んでおけば、ぐらいに軽く考えていた。手術は8月1日に決まり、医学部長と脳神経外科の教授には経過を報告した。手術まで学生の講義や外部の講演会をこなさねばならなかった。骨シンチグラフィを始め、術前検査も多かった。

20年から保険適用となった遺伝子検査を受けると、遺伝性乳がん卵巣がん症候群が判明した。かつて米国女優、アンジェリーナ・ジョリーが、乳房と卵巣の予防切除を受けて話題となった遺伝病だ。日本では既に予防切除も保険適用となっていた。「手術は1回では済まなくなりそうだが、きちんと治療を終え復帰しよう」。(敬称略)


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