中尾 浩一 (なかお・こういち)
社会福祉法人恩賜財団済生会熊本病院 院長
留学先: 米国コロラド大学ボルダー校(1995年9月〜97年8月)
ニューヨークからコロラドへ
今から30年前、ニューヨークのアルバート・アインスタイン医学校、 Leslie Leinwand教授へ留学を希望する「手紙」を送った。誰かの紹介があったわけではない。教授が心臓の分子生物学・遺伝学の第一人者であることは、その論文や学会の役職で分かっていたが、その他のことについては殆ど無知だった。当時、インターネットは未発達で、情報は今ほど簡単に手に入らなかった。後先顧みないアプライだったが、自身の大学院での研究論文2本を「手紙」に同封したところ、幸いにも教授が研究会で来日する際に面接を行う、との連絡がきた。
待ち合わせの場所は大手町の旧経団連会館。そこで私は自身の迂闊さを思い知ることになる。“コゥイチ?”と声をかけてきたのは、ブロンド髪の女性だった。「えっ、女の人?」少し調べれば分かりそうなものだが、論文以外の資料には全く目を通さなかった。どうやらLeslieという名前は、男性にも女性にもあるらしい。教授が男性という思い込みは、当時のいわばアンコンシャス・バイアスだった。しかし、本当に驚いたのは、ひとしきり研究の話をした後「今度ラボをコロラドに移すが、そこに参加しないか?」という彼女の一言だった。「コ・ロ・ラ・ド?」目的地が都会から地方へ、いわば東京から熊本に変わったわけで力抜けしたが、思えばラボの移転が新たなフェロー採用の契機だったのだろう。
宝石のような街
コロラド州ボルダーと聞いて、ピンと来る読者の方は決して多くはないと思う。私自身もそのひとりだった。コロラドの州都・デンバーから北西へ25マイル、ボルダーは青い空と澄んだ空気、大自然に抱かれた宝石のように美しい街だ。この街の東には大平原が広がり、西にロッキー山脈がはじまる。住民10万人余りの小さな街(街が大きくならないよう規制している)で、その多くが白人。コロラド大学や政府系研究機関の関係者の他に、IT企業に勤めるビジネスマンなどの若者が多い。生活レベルは高く、治安もすこぶる良い。地球環境保護と健康を重視するライフスタイル、いわゆるロハス発祥の地とされている。標高約1マイルに位置し、陸上競技などのスポーツ選手が高地トレーニングに訪れることでも知られる。
恵まれた環境と同僚の「教養」
ラボは分子・細胞・発生生物学部門(MCDB)。広大な大学キャンパスのほぼ中央、フットボールスタジアムに隣接する真新しいビルだった。その6階からはボルダーのシンボルである岩山「フラットアイロン」が美しく望める。ラボのメンバーの国籍は多彩で、米国はもちろん、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、中国、ハイチ、トリニダード・トバゴなど20名ほど。日本人は私のみだったので、言葉の依存は一切できなかったが、自然科学の作法は世界共通である。多少の戸惑いや失敗はあったが、資器材の充実とサポートの手厚さはわが国の比ではなかった。振り返れば、あの時ほど新鮮で刺激に満ちた研究の時間はない。
研究の合間にはラボの同僚と連れ立ってヒルサイドのカフェに出かけた。他愛のない雑談から、研究のアイデア、自らのキャリアプラン、そして国際問題まで話題は様々だったが、一番付いて行けなかったのは近代史と英国系文学を背景にした「ジョーク」。シェイクスピアやコンラッドからの引用と思しきチャットでは全く蚊帳の外だった。日本人ゆえ仕方ないなと思う一方で、では自身が自国の歴史と文学にどれほど見識があるのか心許なく、リベラルアーツに費やした彼我の時間差を考えざるを得なかった。
ヒト不全心の研究
研究テーマは心筋の構造蛋白であるミオシン遺伝子。当初はRT-PCR法で遺伝子多型を調べていたのだが、そのアイソフォーム(α/β)mRNAの発現が心負荷によって変化することに注目し、心移植の際に摘出されたレシピエントの不全心や移植に適さなかったドナー心を解析した。デンバーの大学病院に数多く保管されていたヒト心筋サンプルを譲り受けて調べたのだが、初めに驚いたのはドナー心のハーベストまでの時間である。死因である事故や自殺などのイベントから脳死判定を経て心臓が摘出されるまで、平均わずか16時間だった。脳死移植という機微な手続きがかくも早く進行することに、死生観や医療制度の違いを垣間見た気がした。生理学中心だった循環器病学に分子生物学・遺伝学がもたらされた黎明期でもあったせいだろう、研究成果は幸いにも臨床系ジャーナルに掲載され、アメリカ心臓協会(AHA)の助成も得ることができた。用いた心不全解析手法は知財登録もされ、私も開発者の一員に名を連ねた。無鉄砲な留学準備で始まったコロラドでの2年間が、曲がりなりにもひとつの成果に辿り着いたのは、かの国の懐の深さなのだと思う。
真の研究者の矜持
ボルダーは大学街であり、研究機関が多いのでリベラルな雰囲気がある。ラボの同僚や大学院生は多様性に満ち、研究者間の交流も盛んだった。ノーベル賞受賞者の講義にも出席でき、スキーリゾートでの研究交流会(リトリート)にも参加した。研究でもプライベートでも、国籍、人種、年齢、性別などで差別を感じることはなく、自由に議論したが、1度だけ同僚の女性研究者から咎められたことがある。定期的に開かれるラボ合同のセミナーで私がプレゼンし、参加者の1人から細かな分析手法について質問された時のことだ。まだ論文を執筆中だった私は咄嗟にLeslieに「答えていいか」と尋ねたが、「あれはいけなかった」と彼女は言う。私が即答しなかったことを、ではない。自分自身の研究内容の取り扱いを自ら判断することなく「他者の顔色を窺ったのが良くない」と言うのである。彼女はラボで最も業績があり、Leslieが最も信頼する聡明で堅実な研究者だった。後にミシガン大学にポジションを得たと伝え聞いたが、研究を「身体化」している真の自然科学者であって、私などとは全く覚悟が違うと感じさせられた出来事だった。
異文化間コミュニケーションの価値
米国は広い。そして「訪れる」ことと「暮らす」ことの違いは大きい。その土地の空気感、ゲニウス・ロキとその根底にある物語は、暮らしてみなければ分からない。ネットの上澄み情報では、上滑りの理解しか得られないだろう。ボルダーでの2年間は、私と家族にとって貴重で忘れがたい時間となった。もちろん外国ならではの誤解やトラブルは枚挙に暇がないが、コミュニティとの関わりの中でその文化に溶け込みながら、自らの暮らしを創っていく醍醐味は、正に得難いものである。コロラドの大自然が織りなす数々の美しい風景は、今も私たちの瞼に浮かぶ。いわゆる働き方改革で研究することの意義が揺らぎ、「タイパ」が重視される中にあっても、海外留学で異文化に身を置くことの価値は、これからも揺らがずにいて欲しい。
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