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未来の会

私の海外留学見聞録 ㉛
〜テキサス大学
サウスウェスタン医療センター留学〜

私の海外留学見聞録 ㉛〜テキサス大学サウスウェスタン医療センター留学〜

庄古 知久(しょうこ・ともひさ)
東京女子医科大学附属足立医療センター Acute Care Surgeryセンター 教授
留学先:テキサス大学サウスウェスタン医療センター(2010年6月〜10年12月)

ダラスへ

2006年に東京医科歯科大学に救急災害医学講座が新設され、初代・大友康裕教授の下、私は医局長として教室立ち上げに参画した。消化器一般外科医から救急医・外傷外科医に転身し、医師人生の中で最もハードな6年間を医科歯科大で過ごした。

2008年に、米国医師会(AMA)を中心に開発された多数傷病者に対する災害医療トレーニングプログラムNational Disaster Life Support (NDLS)を大友教授が日本に導入し、その日本事務局を当教室が担っていた。この時の米国NDLSの中心メンバーが、テキサス大学サウスウェスタン医療センター(UTSW)の准教授・スウェントン先生だった。

▲ UTSWの入口

スウェントン先生のご縁で、先生が所属する同大学外科のEmergency medicineに客員助教として留学することになった。米国の救急及び災害医学の教育システムを学ぶ目的であった。臨床研究での学位審査が終わり、2010年6月、米国・テキサス州のダラスに向かった。

指導いただいた救急医学 R.スウェントン先生と

テキサス州は米国の南部にあり、メキシコと国境を接する。州面積は日本のほぼ2倍であり、その面積と人口は全米州でそれぞれ第2位である。ダラスは長崎市と同緯度で、夏場は40℃以上、冬場はマイナス10℃に達することもあり寒暖差が激しい気候だ。竜巻やハリケーンの通り道でもあり、毎年被害が報告される自然災害の多い地域でもある。ちなみにUTSWでは、病院内の緊急コードとして心停止時の“コードブルー”と共に、竜巻接近の“コードブラック”が設定されているが、幸いにも留学中にこのコードブラックを聞く機会はなかった。テキサスと聞き最初にイメージするのは、私の世代では、カウボーイと共にプロレスで絶大な人気を誇った、ザ・ファンクスとスタン・ハンセンであろうか。またはアメリカンフットボールのダラス・カウボーイズであろうか。UTSWが米国内でも有数の救急医療機関であることを、恥ずかしながらここを訪れるまで把握していなかった。

充実した大学教育

アパートを借り、ダラスでの生活が始まった。前任の井上潤一先生(現、日本医科大学武蔵小杉病院救命救急センター長)には、様々な支援をいただいた。前々任の谷口巧先生(現、金沢大学麻酔集中治療医学教授)は、留学の足掛かりを提供していただいた恩人であり、お2人には大変感謝している。

UTSWでは、救急医療のペペ教授の下、水曜夕方のレジデント講義、木曜朝の救急カンファレンス、金曜朝の外傷カンファレンスに毎週参加していた。救急部門には教育専任のドクターが配置されており、教育プログラムがきちんと予定通り遂行され、当たり前だが、研修医への評価やフィードバックがきちんと行われていた。

日本の大学の臨床担当医による医学教育では、臨床の隙間時間にミニレクチャーなどを担当するため、重症救急患者の診療や手術などに影響され、予定通りにいかないことが稀ではなかった。臨床の教員がある一定期間、医学教育だけに専念するシステムは非常に新鮮に感じ、日本の医学部でも必須であると強く思った。研修医へのレクチャーの休憩時間には毎回必ずコーヒーとピザなどの軽食が出されていた。結果、教わる者たちが教員と雑談する機会が提供されており、教育効果を高める一助になっていた。

パークランド記念病院での救急医療

UTSWには敷地内に大学附属病院もあるが、公立病院のパークランド記念病院が隣接し、渡り廊下でつながっていた。ここは救急医療で有名であり、救急初療と緊急手術の臨床見学を行った。

パークランドのベッド数は968床で地域最大規模であり、救急患者は年間14万人(1日約400人)来院する。日本の救急病院とは桁違いである。また最重症の外傷患者が搬入されるレベル1トラウマセンターであり、救急車だけでなく、ヘリコプターで重傷者が24時間、夜間も多数搬送される。

1963年にはダラス市街地で銃撃されたジョン・F・ケネディ大統領も搬送されている。当時、大統領を診療した外傷初療室 ”TRAUMA 1”の跡にはプレートが掲示されてあった。また、その当時に研修医として診療参加されていたタール教授と外傷カンファレンスでお話しすることもできた。

▲ ヘリ救急研修の1コマ。3rd ridderとして同乗。病院屋上に給油装置付きのヘリポートがある

米国の外傷データバンク(NTDB)の2010年のAnnual Reportでは、4つの地域 (South, Midwest, West, Northeast)のうち、Southは事故による外傷の比率や事故の死亡率も最も高くなっていた。パークランドの救急外来は患者で溢れており、診療スペースの廊下にはストレッチャーが至る所に並べられ、その上で患者が点滴治療を受けていた。

診察エリアの入り口にはセキュリティチェックのために頑強な警備員が立ち、金属探知機が設置され、このゲートをくぐらないと診療エリア内には入れない。救急外来も広く、4箇所のナースステーションが設置され、これとは別に救急入り口にある患者を応需するカウンターにベテランナースがドーンと構えていた。ナース以外にも検査部門スタッフ、患者搬送スタッフ、研修医達が救急にはひしめいていた。

分業化が徹底しており、特に検査部門が顕著であり、救急の医師が超音波検査をすることはほぼ無かった。重症外傷時には研修医がトラウマベイ(初療室)で超音波によるFASTを行っていたが、明らかな液体貯留所見を判断できないケースを何度か目撃した。様々な検査を実行し診断できる日本の救急医とは大きな違いである。

▲ パークランド記念病院の救急車入り口の前で。同時に5台の救急車が着けられる

外傷の緊急手術も数多く立ち会った。銃創や刺創、鈍的内臓損傷など多彩な手術を経験した。製品化された腹部陰圧閉鎖システム(V.A.C.®)や血管内冷却装置(Thermogard®)など、当時の日本では使えなかった最新救急医療機器も目にすることが出来た。UTSW以外にも、救急ヘリへの同乗や、ダラス消防署での救急車同乗なども経験した。またテキサス州内の各地で行われたNDLSの講習会にも多く参加し、米国でのOff the job trainingを体験した。

米国の救急医学教育、救急医療の現場とそのシステムを学べたことは、その後、大学教員として計り知れない財産になっていた。家族4人を日本に残しての留学であり、経済的には辛かったが、かけがえの無い経験が得られた。当時は1ドル86円であった。あの頃に戻りたい。

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