米兵事件を沖縄県に通報しない「従米」外交の危うさ
今年6月にイタリアで開かれた主要7カ国首脳会議(G7サミット)の出席者達は、議長国イタリアのメローニ・首相を除いて「6人のレームダック(死に体)」と揶揄された。その後、英国のスナク・首相は下院総選挙で与党が大敗し退陣。フランスのマクロン・大統領の与党連合も国民議会選挙で大きく後退し、政権運営の更なる不安定化は避けられない。米国のバイデン・大統領は11月の大統領選を前に選挙戦からの撤退に追い込まれた。我が国の岸田文雄・首相は内閣支持率の低迷に苦しみ、9月の自民党総裁選への再選不出馬を表明した。
揺らぐ民主主義陣営の「正義」
民主主義国家の外交は難しい。時の政権は常に選挙を意識し、内政の動向に外交が縛られる。ロシアのウクライナ侵略が続き、中国の拡張主義に対抗する為にも民主主義国家陣営の結束が求められる一方、国民の関心は生活に直結する内政の課題に向かいがちだ。国民世論の間でポピュリズムが台頭すれば、近隣国への敵愾心や排外主義を煽って人気を得ようとするポピュリストの指導者が現れたりもする。国民の厳しい審判と向き合う必要の無い権威主義国家の独裁者に比べ、民主主義国家の意思決定には多大な時間と労力を要する。その代わり、民意の支持を得た民主主義国家の外交は強い。
戦後、宏池会(現・自民党岸田派)を創設し「所得倍増」を唱えた池田勇人・元首相は1960年の国会演説で「外交と内政は本来一体不離のものである」と論じた。前任の岸信介内閣が「安保闘争」を経て退陣し、社会党の浅沼稲次郎・委員長が右翼の少年に刺殺された混迷の時局。社会不安が広がる中で「国内の人心が平静を保ち、社会秩序が平穏に維持される事は、我が国の経済の繁栄と文化の向上の前提であり、我が国の国際的信用の向上と外交上の発言力を強める所以である」と訴えた演説の一節だった。
それから60年以上の月日が流れた。宏池会の系譜を引き継いだ岸田首相は、2021年10月の衆院選、22年7月の参院選で勝利し、24年の参院選まで選挙を気にせず政策実現に取り組める「黄金の3年間」を手にした筈だった。しかし、高度経済成長期の政権を担った先人にあやかろうと打ち出した「資産所得倍増プラン」も道半ば。「防衛増税」等で国民の理解を得る努力を怠り、自民党派閥の裏金事件でも対応を誤った岸田政権に対する国民の信頼は3年を待たず地に落ちてしまった。来夏の参院選迄1年弱。衆院議員の任期が終わる来年10月末迄1年余り。焦る自民党は、残る期間を政策実現に有効活用する余裕を失った様だ。9月の総裁選で岸田首相に代わる新しい「選挙の顔」を担ぎ上げ、10月にも衆院解散・総選挙に踏み切って政権運営をリセットするシナリオが俄に現実味を帯びて来た。
岸田首相はこの間、内政の不人気を外交で巻き返そうとして来た。昨年5月、地元広島で開いたG7サミットでは議長国として民主主義国家陣営の結束を主導すると共に、G7首脳による原爆死没者慰霊碑への献花も実現させた。社会調査研究センターの昨年6月の世論調査では内閣支持率が3割台を回復したが、岸田首相が思い描いていたとされる「広島サミットの成功で政権運営に弾みを付けて衆院解散・総選挙」に踏み切れる程の評価には至らなかった。やはり外交と内政は一体不離。内政で国民の信頼を得られない首相がいくら外交で成果を挙げても、それだけで政権は安定しない。
「核無き世界」の信念も軽く
国際情勢は今、中東戦争の危機に直面している。ロシアのウクライナ侵攻以降、岸田政権が民主主義陣営の結束に注力して来たのは、海洋進出を強める中国の拡張主義に対抗する為だ。欧州でロシアが力による現状変更に成功すれば、中国の台湾侵攻を誘引し兼ねない。いざ台湾海峡危機という事態に北大西洋条約機構(NATO)を巻き込みたい日本としては、欧州の危機に日本が知らん振りを決め込む訳には行かないのである。その点で民主主義陣営VS権威主義陣営の対立の構図が「岸田外交」の親米路線に説得力を与えて来たと言える。
だが、パレスチナのイスラム組織ハマスがイスラエル側へ襲撃を仕掛けた昨年10月以降、ハマスが実質的に支配して来たガザ地区へのイスラエル軍の侵攻は民族虐殺(ジェノサイド)の様相を呈し、イスラエルを支援する民主主義陣営の「正義」が揺らいでいる。ウクライナに侵攻したロシアの「悪」が相対化され、民主主義陣営も権威主義陣営もどっちもどっちの対立構図に変容してしまったからだ。ガザ地区の虐殺を止められない米国への批判は、安全保障を米国に依存する同盟国にも向けられている。
イスラエルに対する非難の声は欧米諸国の市民の間にも広がり、国際社会で孤立し兼ねない状況に陥ったイスラエルのネタニヤフ政権は、ハマスを支援するイランに矛先を向ける事で戦火を拡大させる危険な賭けに出た。中東の軍事大国同士の戦争に発展すれば、イスラエルの後ろ盾・米国も前面に出ざるを得なくなる。その時、米国の同盟国である日本はどう動くのか。イランやアラブ諸国との歴史的な友好関係を持つ日本の独自外交を期待したいところだが、レームダック化した岸田政権が複雑な中東情勢に的確に対応出来るとは思えない。。
今年4月に米国を公式訪問した岸田首相は米議会で英語で演説し、「米国は独りではありません。日本は米国と共に在ります」と表明してスタンディングオベーションに包まれた。中国やロシアを批判し、自由と民主主義という共通の価値観を守る事に「世界中の民主主義国は総力を挙げて取り組まなければなりません」と言い切った岸田首相の信念を疑うつもりは無い。しかし、民主主義陣営の「正義」が絶対ではない事に日本国民の多くが気付いている。そこから目を背けて米国を礼賛した演説に、日本の国益より「従米」を優先し兼ねない岸田外交の危うさを感じたのは筆者だけではないだろう。
その危うさは、沖縄駐留米兵による複数の性的暴行事件を外務省が沖縄県に通報していなかった問題で顕在化した。日米政府間では中国の海洋進出に対抗する為、南西諸島に於ける同盟協力の強化が進められている。それが国益に資すればこそ、政府は、基地負担や有事のリスクを押し付けられる沖縄県民に政策的意義を丁寧に説明し、理解を得る努力をしなければならない。仮にその努力を放棄し、国民の生命・生活を守る事より米側の顔色を窺う事を優先するなら、その瞬間に日本政府の外交は国益を離れた「従米」に堕す。岸田首相の訪米前に事件が公表されていたら、それでも首相は同じ演説が出来ただろうか。
岸田首相の米議会演説には「広島出身の私は、自身の政治キャリアを『核兵器の無い世界』の実現という目標に捧げて来ました」との一文も盛り込まれた。筆者も広島出身だが、岸田首相が核廃絶・核軍縮の先頭に立って政治活動を展開して来たとの認識は広島県民の間でも乏しいのではないか。外相を5年近く、首相を3年も務めながら、核兵器禁止条約へのオブザーバー参加すら為し得ていない岸田首相が語る「核無き世界」に信念は感じられない。日本の安全保障が米国の「核の傘」(拡大核抑止)に依存している現実は現実として、自らの信念より「従米」を優先するなら、それは信念とは呼べない。
そもそも何がしたくて首相を志したのかも国民に伝わらないまま、内政で国民の信頼を失った岸田首相は、自民党総裁選を前に「信なくば立たず」の決断に至った。中東危機に際して「従米」を超えた外交戦略を描く大仕事は次期政権に引き継がれる事になるが、「ポスト岸田」に誰が名乗りを上げるにせよ、新たな外交戦略を描ける首相が誕生する保証も無いのが日本の政治の厳しい現実である。
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